中丸砦(なかまる)
 別称  : 中丸旧塁
 分類  : 山城
 築城者: 不明
 遺構  : 曲輪跡、堀、切岸
 交通  : JR中央本線長坂駅よりバス
       「藤武神社」バス停下車

       <沿革>
           『甲斐国志』によれば、天正十八年(1582)の天正壬午の乱に際して「増築」されたものと
          される。同乱では、中丸の南1.5kmほどの花水坂で徳川軍と北条軍の間で戦闘が行われて
          おり(花水坂の戦い)、『日本城郭大系』では「増築」主を北条氏とみている。
           「増築」ということは、砦自体はそれ以前から存在していたことになる。『国志』では、「逸見
          (源)清光ノ塁ト云伝フ」としているが、時代的に信を置くことはできない。したがって、築城主
          については不明といわざるをえない。


       <手記>
           中丸砦は、大深沢のその名の通りの深い浸食谷の、舌状の一端に築かれています。現在、
          城跡は小字「城山」と呼ばれる畑地となっています。端的に分かる遺構は、畑の外側1段下
          を巡る堀跡で、現在は作業道となっています。この堀は、南西端で台地側に食い込むように
          掘り込まれています。西側の斜面の中腹には、地元で烽火台と伝わる削平地があり、貴重
          な遺構となっていますが、民家の敷地内のため踏査は困難です。
           ちょうど、畑の持ち主のご夫婦が仕事をなさっていたので、お話を伺うことができました。
          それによると、周辺は山本勘助が武田晴信に仕えて最初に与えられた領地で、砦も勘助に
          よって築かれたとする伝承があるそうです。ご夫婦のご先祖も、勘助の出身地とされる三河
          から移住と伝えられているということで、勘助築城説をかなり信じておられるようでした。ただ、
          そもそも勘助が武田氏の重臣であったとする証拠は今のところ見つかっていないので、伝説
          の域をでるものではないでしょう。
           他方で、お話では砦の北に藤武神社が鎮座する場所にはかつて寺があり、砦へはその寺
          のあたりから水を引いていたとのことでした。これが事実なら、やはりもともとは在地領主の
          居館であった可能性が高いといえます。

           
 中丸砦跡現況。
砦跡を囲う堀跡。 
 南辺の堀跡&切岸。
南西端の堀の掘り込み部(藪の中)。 
 烽火台と呼ばれる西側斜面の削平地を望む。


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