直鳥城(なおとり) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 犬塚家久 | |
遺構 : 曲輪跡、堀 | |
交通 : JR長崎本線佐賀駅よりバス 「直鳥」バス停下車徒歩5分 |
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<沿革> 崎村城主犬塚家貞の四男家久によって、永正年間(1504〜21)に築かれたとみられている。 犬塚氏は宇都宮流蒲池氏の庶流で、家貞は蒲池義久の三男とされる。 直鳥犬塚氏は、はじめ少弐氏に仕え、少弐氏が龍造寺隆信に滅ぼされると大友氏に従った。 家久の跡を継いだ家清とその子尚家は、大友宗麟の命により宝満山城主筑紫惟門を攻めた が、敗れて戦死した。家督は尚家の弟鎮家が継いだ。 永禄十二年(1569)、犬塚本家は龍造寺氏に属した崎村城の東犬塚氏と、大友氏に留まった 蒲田江城の西犬塚氏に分裂した。鎮家は、これまでどおり大友氏とそれに属する西犬塚氏を 支持した。同年中に西犬塚家の犬塚尚重が東犬塚家の犬塚鎮直に敗れて討ち死にしたため、 鎮家が西犬塚家を相続した。鎮家は直鳥城から蒲田江城に移り、これ以降直鳥城は史料から 姿を消した。このときに、直鳥城は廃城になったものとも考えられるが、詳細は不明である。 <手記> 直鳥城はクリークで有名な筑紫平野の平野部にあり、東には筑後川の支流城原川が流れて います。周辺の他のクリーク城と同じく、水路を利用した城というよりクリークに浮かぶ島々から なる城といった感じです。現地の説明版によれば、当時はこれら島々の曲輪間を小舟で移動 していたと考えられているそうです。 城跡は半分くらいは民家や農地に使われていますが、もう半分ほどは、駐車場完備の自然 公園として整備されています。そのため他のクリーク城よりも見通しが利き、1人で「クリーク! クリーク!クリーク!」とはしゃいでしまいました(このネタが分かる人がどれくらいいますやら)。 小島が散在するのみで縄張りもなにもあったものではありませんが、中心部には主郭とみら れる「城屋敷」の字をもつ、L字状の曲輪があります。その周囲には「長左衛門屋敷」や「屋敷 内」、「鍛冶屋敷」などの字をもつ島があり、本丸以下二の丸、三の丸と曲輪間に順序を付ける 意思はなかったと推測されます。おそらく、島ごとに用途の異なる建物群を配した環濠集落的 な城だったものと思われます。 |
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直鳥城址主郭とみられる字「城屋敷」の島。 | |
「城屋敷」北東の字「長左衛門屋敷」の島。 | |
「城屋敷」北西の字「屋敷内」の島。 | |
「城屋敷」南東の島々。 | |
「城屋敷」南東付属の曲輪の島。 |