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西長尾城(にしながお) |
別称 : 長尾城、国吉城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 海崎(長尾)元高 | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁、井戸跡 | |
交通 : 琴電琴平線岡田駅からバスに乗り、 「打越」下車徒歩45分 |
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<沿革> 康安二/正平十七年(1362)、細川頼之が細川清氏を討ち果たした白峰合戦で軍功を挙げた 海崎城主海崎伊豆守元高は、岡田・栗熊・炭所・長尾の4か村を与えられた。元高は応安元/ 正平二十三年(1368)に父・備前守元村を伴って西長尾城へ居城を移し、長尾大隅守を称した。 西長尾城が既にあったのか、このときに初めて築かれたのかは定かでない。以後、長尾氏は 代々大隅守を名乗って鵜足・那珂両郡に勢力を広げていった。 天正七年(1579)四月、土佐の長宗我部元親が讃岐へと侵攻すると、長尾高勝・高親父子は 城を出て夜襲をかけるなど奮闘したが、天霧城主香川信景の勧告を受け入れて翌五月に降伏 した。翌八年(1580)には長宗我部氏重臣・国吉甚左衛門が城将として入れられ、大規模な城の 改修が行われたとされる。 天正十三年(1585)に羽柴秀吉が四国を平定すると、長尾氏は所領を失い、西長尾城も廃城と なったとみられている。 <手記> 西長尾城は、西向きに延びる標高375mの城山に築かれた山城です。丸亀市とまんのう町に 跨っていますが、登城口である綾歌森林公園が丸亀市側なので、そちらの項目に含めました。 ただし、長尾氏の平時の居館はまんのう町側南麓の超勝寺付近にあったと考えられているよう です。公園からは作業車も登れる幅の道が主城域下の鞍部まで通じており、地元の方も散策に 訪れているようでした。 城山は割と緩やかな山容に思えますが、上の図を見ても分かるとおり、主城域の頂部がやおら 急峻に突出しています。近年、発掘調査や整備が進められているようで、豪快な堀切や井戸跡、 腰曲輪が連なる「連郭式郭列」などがはっきりと目にできます。山頂の主郭からの眺望も開けて いるのですが、この日は残念ながらものすごい春霞でした^^; 鞍部を挟んだ横長の稜線にも造作がみられ、長宗我部氏によって拡張された部分といわれて います。その西端は「ヤグラ」と呼ばれる高台となっており、西側には腰曲輪が、東側には堀切が 付属しています。稜線の東端には、現地でもう一つのヤグラとされる土塁があり、その外側には 二重堀切が設けられています。ただし、作業道が稜線のすぐ脇を削っていて、哀しいことに折角の 二重堀のようすはよく分からなくなってしまっていました。だいぶ壊してしまってから調査や保存を 謳っていますが、どうかこれ以上破壊されることのないように期待したいですね。 |
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綾歌森林公園から西長尾城跡を見上げる。 | |
主城域の堀切および竪堀。 | |
井戸跡。 | |
竪堀および井戸跡のようす。 | |
「連郭式郭列」。 | |
腰曲輪の一つ。 | |
連郭式郭列から主郭を見上げる。 | |
腰曲輪の一つ。 | |
同上。 | |
主郭のようす。 | |
城山山頂。 | |
主郭から丸亀市街方面を望む。 | |
主城域東側の鞍部。 | |
鞍部脇の堀切ないし虎口状地形。 | |
下の腰曲輪。 | |
西側のヤグラ。 | |
ヤグラから主城域を望む。 | |
西のヤグラ東側の堀切。 | |
西のヤグラ東側の稜線。 曲輪形成ははっきりしません。 |
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東のヤグラ。 | |
東端の二重堀切。 | |
同上。 | |
主城域の堀切から延びる竪堀。 |