オーバーハウス要塞 ( Veste Oberhaus ) |
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別称 : オーバーハウス城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: ウルリッヒ2世・フォン・パッサウ | |
交通 : パッサウ中央駅より徒歩30分 | |
地図 :(Google マップ) | |
<沿革> ドナウ川、イン川、イルツ川の3河川の合流点に位置するパッサウは、ローマ時代から陣営が 建設され重要視されていた。8世紀には司教座が置かれ、パッサウ司教の支配下で町は発展 した。 ドナウ川とイルツ川に挟まれた峰に初めて城が築かれたのは、1219年のこととされる。当時 のパッサウ司教ウルリッヒ2世・フォン・パッサウは、1217年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世 から司教領主に封じられていた。ウルリッヒ2世は、外敵からの防衛はもちろんパッサウの帝国 自由都市化を望む市民に対抗する目的のもと、オーバーハウス城を築いた。実際、1298年と 1367年にオーバーハウス城は市民側の軍隊に攻囲されたが、落城は免れている。 ちなみに、オーバーハウスとは英訳すれば「upper house」となり、2川の合流点に築かれた ニーダーハウス(英訳すれば「lower house 」)に対応するものである。1250年のパッサウ司教 オットー・フォン・ローンスドルフの文書に、新旧2つの城が区別されて記されていることから、 ニーダーハウス城もこのときまでには築かれていたと推測されている。 1367年の包囲戦の後、オーバーハウス城とニーダーハウス城を結ぶ尾根上に回廊城壁が 築かれ、オーバーハウスに司教の居館が設けられた。その後も、断続的に改修・拡張が重ね られた。そのなかで城から要塞へと呼称が変化したものと思われるが、時期や経緯は詳らか でない。 1802年、要塞はじめパッサウ司教の財産の多くがバイエルン選帝侯によって侯領化された。 バイエルン侯はフランスのナポレオンと同盟していたため、オーバーハウス要塞はオーストリア との合戦でナポレオン軍の中継基地として、また対オーストリアの前線要塞として使われた。 その後は1931年にパッサウ市の所有となるまで、バイエルンの要塞であり続けた。 <手記> パッサウの旧市街自体が、ドナウ川とイン川の合流点の細長い中州を利用した要衝・要害の 町です。ですがオーバーハウス要塞は、そんなパッサウ旧市街を見下ろすドナウ川とイルツ川 の合流点に突き出た峰の上というこれまた要害・要衝に地に築かれています。2河川の合流点 にはニーダーハウス要塞があり、両者は尾根筋の城壁に挟まれた通路で繋がっています。 現在、ニーダーハウスには入れないようですが、オーバーハウスは市の歴史博物館となって います。オーバーハウスへは麓から歩いて登るほか、市庁舎前の広場から有料のマイクロバス が出ています。オーバーハウス要塞は大きく2つの部分に分けられ、博物館となっている建物 一帯が旧オーバーハウス城であった古い箇所です。ここから北西の山上に続く部分は、城の 要塞化に伴って拡張された部分で、近代的な稜堡を備えています。この拡張部分の一角に、 城内でもっとも高い塔があり、別料金で登ることができます。塔の上からは、周囲に遮るもの もののない絶景が楽しめます。 要塞としては必ずしも大きい部類ではないように思いますが、第二次大戦前まで現役だった だけあって、遺構は他の要塞と比べてもとくに良好に残っているように感じました。 |
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パッサウ旧市街地側から両要塞を望む。 | |
オーバーハウスとニーダーハウスを結ぶ回廊城壁。 | |
オーバーハウス要塞の主郭入口。 | |
城内の礼拝堂。 | |
オーバーハウスから砲台と南方を望む。 | |
オーバーハウス要塞の市街地側城壁。 | |
パッサウ旧市街を望む。 | |
オーバーハウスからニーダーハウスを望む。 | |
旧市街側からニーダーハウスを望む。 | |
オーバーハウス主郭の堀底から要塞拡張部分を望む。 左手の白い建物の頂部が城内最高所の塔。 |
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塔の上から稜堡を望む。 | |
塔の上から主郭の建物を望む。 最初期のオーバーハウス城域でもあります。 |