鳳山県舊城(ほうざんけんきゅう)
 別称  : 左営舊城
 分類  : 平城
 築城者: 清朝
 交通  : 台湾鉄道左営(旧城)駅徒歩7分
 地図  :(Google マップ


       <沿革>
           1683年に安平の鄭氏政権が清朝に降伏すると、翌1684年に鳳山県が設置されたが、
          県庁は鳳山荘ではなく興隆荘の左営に置かれた。これは、亀山や蛇山といった要害地形
          を擁し、周辺がある程度開発されていたからといわれる。一説には、左営の地名は鄭成功
          が自軍を前後左右中の五路に分け、そのうち左路の軍営が設けられたからとされる。
           実際に庁舎が建設されたのは1704年のことであったが、このとき県庁の周囲に刺竹の
          生け垣が巡らされた。これは、当時の清朝では石造の城を新たに築かないという政策が
          採られていたためである。
           1721年4月、清朝の台湾での圧政に反発した朱一貴が1千人余を率いて反乱を起こす
          と、ほとんど防衛設備をもたない鳳山県庁は簡単に制圧された。5月には台南の台湾府城
          も陥落させ、朱一貴は「大明国」の「中興王」を自称したが、翌6月には台湾に上陸した清
          の大軍に敗れ、捕えられて処刑された。
           朱一貴の乱を受けて、鳳山県庁には翌1722年に土塁が巡らされた。1734年には、土塁
          の外側に三重の刺竹生垣が設けられ、1760年には4つの城門に砲台が設けられた。
           1787年に林爽文事件が発生すると、荘大田が鳳山で挙兵し、県城を占領した。反乱は
          清朝軍に鎮圧されたが、清の乾隆帝は鳳山県城を含む台湾の5城の石造化を発令した。
          しかし、1788年には台湾府城と嘉義県城の2城のみの石造化に縮小され、代わりに鳳山
          県城の鳳山荘埤頭街への移転が決定された。「舊城(旧城)」とは鳳山荘の新城に対する
          呼称である。
           1795年に陳周全が彰化で反乱を起こし、1805年には福建の海賊である蔡牽と吳淮泗が
          新城を攻撃した。こうした状況を受け、防衛の面から県庁を舊城に戻すべきとの建白書が
          提出され、1807年に承認された。1823年には石造への改修工事が計画されたが、資金上
          の問題からまもなく中止されている。しかし、翌1824年に楊良斌が蜂起して舊城を一時的
          に包囲すると、住民からも城塞整備の要望が高まり、1826年に新たな県城が完成した。
          費用の75%は、住民からの寄付金で賄われたといわれる。
           新たな石造の県城を「石城」、それまでの土造の城を「土城」ともいう。また、土城東辺の
          土塁は亀山の中央を横断していたが、石城は亀山全体を取り込む形で、城郭全体が北東
          へスライドしている。左営舊城は、嘉義県城に次ぐ台湾で2番目の石造の城であった。
           ところが、新城の水利や交通が既に発達していたため、官民の多くは舊城への再移転を
          拒否した。県知事が急死したことや、縁起の良い亀(山)を囲って水から引き離して風水が
          崩れたとされたことが、不吉と捉えられたためともいわれる。機能移転は遅々として進まず、
          1853年には県庁が再度新城へ遷され、舊城は駐屯地として軍務機能を残すのみとなった。
           日本統治時代に左営は軍港となり、西門と城壁の多くが取り崩された。


       <手記>
           左営舊城は、台湾高鉄(新幹線)の終点・高鉄左営(新左営)の南西、蓮池潭のほとりに
          位置しています。最寄の台湾鉄道左営駅と高鉄左営駅は別の駅なので注意が必要です。
          上述の通り、4つの城門のうち西門を除く3つが残り、南門は交差点ロータリーに囲まれて
          います。北門と東門の脇には城壁があり、一部が復元という後者のそれは長大で見応えが
          あります。東門から亀山を回って北門へ至る「見城之道」という遊歩道が整備されています
          が、むしろこのルート沿いにはあまり見どころがありません^^;
           亀山に頂上には戦時中に日本軍が構築したトーチカなどがあります。周囲には石塁なども
          見られますが、城の遺構なのかどうかは怪しいでしょう。そもそも日本の城郭と異なり、亀山
          自体には防御施設や建物はほとんどなかったようです。北門を抜けた先は義民街といい、
          戦後に中国共産党を厭って大陸から渡って来た人向けに住宅地が作られたのだそうです。
          そのため、北門だけは今も日常的に人々が往来しています。
           西門跡は近年発掘されているようで、地表展示されています。門跡一帯には、特攻ボート
          「震洋」隊の基地が置かれていたそうで、城壁と合わせて防空壕も点在する公園として整備
          されていました。西門から東門へ向かう途中にも発掘地点があり、今後は調査と史跡保存が
          進んでいくものと期待されます。
           亀山の南麓には見城館というビジターセンターがあり、舊城を訪れるならぜひ立ち寄るべき
          でしょう。とくに、ジオラマによるムービー解説はおすすめです。中国語が分からない私でも、
          英語と漢字の字幕でおおよその内容は理解できました。また、見城館だけで目にする舊城の
          ロゴがあり、個人的に優れたデザインだと思っています。この意匠のTシャツなどがあれば、
          ぜひお土産に購入したいと思っていたのですが、残念ながらグッズ展開はされていないよう
          でした^^;
           左営は海に近く要害性も備え、また交通上の要地でもあります。もし、日本の大名が高雄に
          居城を築くとすれば、やはり亀山に近世的な平山城を築くのではないかなと感じました。

  
 東門。トップ画像も同じくです。
東門を城内側から。 
 東門の上から。
東門から続く城壁。 
 城壁途中の張り出し砲台。
南門。 
 南門脇の城壁跡。
西門跡。 
 西門遺址公園の城壁と砲台。
砲台と城壁の上から。 
 西門遺址公園の旧日本軍防空壕。
同上。 
 西門と東門の間の発掘ポイント。
同上。 
 北門。
北門から続く城壁。 
 北門付近から亀山を見上げる。
亀山頂部のトーチカ。 
 亀山から蓮池潭方面の眺望。
亀山頂部付近の戦時中の石塁。 
 同じく戦時中の石塁か。
亀山先端部の展望台。 
 展望台から亀山山頂を見上げる。
亀山先端部の城壁跡。 
 亀山南東麓の城壁と食事処。
食事処で食べた蓋澆麺(トマト麺)。 
 見城館。
見城館のジオラマ。 
分かりやすくおすすめです。 
 見城館の舊城のロゴ。
 これのグッズが欲しかった…笑


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