ライギット城
(Dover Castle)
 別称  : なし
 分類  : 平山城(モット・アンド・ベイリー)
 築城者: 第2代サリー伯ウィリアム・ド・ウォーレン
 交通  : ライギット駅徒歩10分
 地図  :(Google マップ


       <沿革>
           ウィリアム1世のノルマン・コンクエストに従軍して功を立て、ルイス城を築いて本拠とした
          ウィリアムは、死に際の1088年にサリーのライギット周辺を加増され、サリー伯に叙された。
          ライギット城はその子2代目サリー伯ウィリアムによって築かれ、1150年ごろには城下町の
          建設も命じられた。ライギットの語源には諸説あるが、一説には街の入口に伯家の鹿園が
          あり、その「牡鹿門(Roe-deer Gate)」が由来とされる。
           1215年にマグナ・カルタ(大憲章)の履行を巡り第一次バロン戦争が勃発すると、ジョン王
          と対立する諸侯に招かれたフランス王太子ルイ(後のルイ8世)が翌1216年に渡英・侵攻し、
          ライギット城を占領した。このことは、サリー伯がジョン王の数少ない忠臣であり続けたことを
          物語っている。翻って、マグナ・カルタがライギット城の地下洞窟で起草されたとする伝説が
          地元に残るものの、事実とは考えられていない。
           7代サリー伯ジョン・ド・ウォーレンが1347年に嗣子なく没すると、伯爵位はジョンの姉の子
          であるアランデル伯リチャード・フィッツアランに受け継がれた。1397年、ライギット城は後に
          ノーフォーク公となるハワード家をはじめとした複数の荘園領主の所有となった。
           1550年ごろには、『殉教者たちの物語(Book of Martyrs)』を著したジョン・フォクセが城に
          居住した。ジョンは3代ノーフォーク公トマス・ハワードの娘メアリー・フィッツロイをパトロンと
          して、メアリーの甥で後に4代ノーフォーク公となるトマスの家庭教師を務めていた。
           17世紀半ばのイングランド内戦に際して、チャールズ1世を支持するホランド伯ヘンリー・
          リッチら王党派がライギット城を駐屯地として取り立てた。1648年に王党派が敗れ、翌年に
          チャールズ1世やヘンリー・リッチらが処刑されると、ライギット城は破城された。
           以後、城が再興されることはなかったが、1777年にリチャード・バーンズなる人物が私財
          を投じ、模擬門を建造した。門の両側面には、英語とラテン語でその旨が刻まれている。


       <手記>
           ライギットはロンドンの南の郊外に位置する小都市で、さらに南方10km弱にはガトウィック
          空港があります。日本人が習う英語の発音ではレイゲイトと読みそうな感じで、シャーロック・
          ホームズシリーズの『The Reigate Squires』は「ライゲートの大地主」と訳されているようです
          が、地図や現地の人の発音はたしかにライギットに近かったです。
           城はライギットの目抜き通りを南麓に望む小丘の上にあり、堀に囲まれた典型的なモット・
          アンド・ベイリーであったことが容易にうかがい知れます。城内は公園となっていて、横堀の
          ほかに遺構らしきものは見当たりません。「男爵の洞窟」と名付けられた上述の地下洞窟が
          建造物としては現存している唯一のものだそうで、夏期に月一くらいの頻度で公開ツアーが
          催行されているようです。また、主郭の東側にはリチャード・バーンズが建設した模擬門が
          堀を跨ぐ橋を兼ねていますが、いたるところに十字を散りばめたメルヘンともホラーともつか
          ない非現実的な雰囲気を醸し出しています。

 1777年に造られた模擬門。
郭内のようす。 
 同上。
モット・アンド・ベイリーの空堀。 
 堀を跨ぐ橋を兼ねた模擬門。
南麓からの登城口。 
左側は説明板。 
 1823年に掘られたライギット隧道。
ライギット旧市街の目抜き通り。 


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