| リュートベルク城 (Burg Rüdberg) |
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| 別称 : なし | |
| 分類 : 平山城(Höhenburg) | |
| 築城者: トッゲンブルク家か | |
| 交通 : ディートフルト駅から徒歩20分 | |
| 地図 :(Google マップ) | |
<沿革> 1267年に「Joanne milite de Ruotberch(ジョアンヌ・ミリート・ド・リュートベルク)」なる 人物の名が見え、城との関連が指摘されている。1270年の文書に「Castrum Rudeberg」と 記されているのが、史料上の初出とされる。リュートベルクの名称は、当時周辺で勢力を拡大 していたトッゲンブルク伯家の紋章に描かれている猟犬(Rüde)にちなむと考えられている。 1275年、フリードリヒとディートヘルムの間で所領が分割されると、リュートベルク城は両者の 境目の城として機能した。他方で、城自体はザンクト・ガレン修道院長の手に渡った可能性も 指摘されている。1280年に、ザンクト・ガレン修道院長が城の対岸に位置するビュッチュヴィル の荘園をヴェルデンベルク=ハイリゲンベルク伯への抵当に入れており、1303年以降、同伯の 家士としてリュートベルク家が登場しているためである。 遅くとも1340年時点でヴェルデンベルク=ハイリゲンベルク伯の所有財となっていたリュート ベルク城は、同年にトッゲンブルク伯の抵当となった。1386年、トッゲンブルク伯ディートヘルム 6世の未亡人カタリーナ・フォン・ヴェルデンベルク=ハイリゲンベルクは、城を2人の息子である フリードリヒ7世に譲渡した。 こうしてリュートベルク城はトッゲンブルク伯家の所有に復したが、リュートベルク家の処遇に ついては定かでない。15世紀にその名を冠するヴェルデンベルク=ハイリゲンベルク伯の家臣 が再び現れるが、リュートベルク城代であったころのリュートベルク家とは紋章が異なっている。 トッゲンブルク家に譲られた時点で城を離れ、主家と共に没落したとも推測されるが、確証は ない。 トッゲンブルク伯家も15世紀半ばには相続争いによって凋落し、リュートベルク城は1468年 にザンクト・ガレン修道院の所有となった。しかし、もはや城が顧みられることはなく、1504年 には「城跡(Burgsäss)」として記録されている。 <手記> リュートベルク城はトッゲンブルク地方の主要部を形成するトゥール側の右岸屈曲部外側に 位置し、南北をその支脈に削られた細峰上に築かれています。周囲からは目立たない場所に あり、市街地や街道は川の左岸に集まっていますが、当時はボーデン湖とチューリッヒを結ぶ 「帝国街道(ライヒスシュトラーセ)」が城のすぐ脇を通っていたそうです。ディートフルト駅から 橋を渡って左折すると川沿いに遊歩道が延びていて、城山南麓の沢を渡渉するとハイキング コースに入ります。 登りついた先は主郭背後の大堀切で、ここだけ見ると日本の山城跡に来たかのようです。 規模は大きくなく、主郭には小さな主塔や居住棟などの基部が残っています。いずれも生活 するのに最小限といった感じで、街道監視や関所といった役割以上のことは期待されていな かったのではないかと推察されます。ヨーロッパではよくみられるのですが、郭内ではBBQが できるようになっており、ちょうど10人くらいのファミリーが次々と肉を焼いていました。 主郭の前方下には副郭があり、現地説明板によれば木柵が巡り井戸が設けられていた 程度だったようです。当然ながら木柵は朽ちてなくなっており、曲輪の様子や主郭を見上げた 感じは、やはり日本の山城の腰曲輪に酷似していました。15世紀までの早い段階で打ち捨て られた欧州の城跡と、15~16世紀ごろに築かれた日本の山城の雰囲気がよく似ているという のは、不思議とも面白い点ともいえますね。 |
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| 南からリュートベルク城跡を望む。 | |
| トュール川沿いの遊歩道から望む。 | |
| 城山南麓の沢沿いの遊歩道。 | |
| 登城途中のようす。 | |
| 背後の大堀切。 | |
| 同上。 | |
| 城壁の基部。 | |
| 郭内のようす。 | |
| 主塔跡。 | |
| 居住棟跡。 | |
| 主郭南西隅の城壁。 | |
| 主郭西側の門跡。 | |
| 副郭を俯瞰。 | |
| 副郭から主郭切岸を望む。 | |
| 井戸跡か。 | |
| 副郭からトゥール川を見下ろす。 | |