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砕導山城(さいちやま) |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 逸見氏か | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀 | |
交通 : JR小浜線若狭高浜駅徒歩10分 | |
<沿革> 若狭武田氏重臣・逸見氏の居城とされる。逸見氏は武田氏と同じ甲斐源氏の有力支族で、 永享十二年(1440)に若狭守護職を得た安芸国分郡守護・武田信繁の嫡男・信栄と共に入国 したものと考えられる。 砕導山城の築城時期については、永正三年(1506)ごろと推定する説もあるが確証はない。 同十四年(1517)、丹後守護一色氏の内紛に伴い逸見国清が一色九郎を擁する丹後守護代・ 延永春信と結んで主君・武田元信に反旗を翻したものの敗れて降伏しているが、この争乱に 砕導山城の名は現れない。 永禄四年(1561)には、逸見昌経が砕導山城を拠点として武田義統に対し反乱を起こした。 義統は弘治二年(1556)ごろから隠居した父・信豊と対立しており、昌経は若狭を追放されて いた信豊を擁立し、丹波国の三好氏重臣・松永長頼(内藤宗勝)の支援を受けていた。この間 までに、砕導山城が築城ないし拡張されていたことになる。 独力での鎮圧は困難とみた義統は、越前の朝倉氏に援軍を要請し、計1万1千で砕導山城を 包囲した。対する昌経方は、領民や同調する他の国人勢、長頼の援兵などを含め約8千人が 立て籠もったとされる。1か月弱の攻囲戦の末、同永禄四年六月二十日に昌経は降伏し、城を 開いて落ち延びた。 永禄八年(1565)、宗勝の後援を受けた昌経が大飯郡へ攻め入り旧領を回復すると、砕導山 の北の陸繋島に高浜城を築いて新たな居城とした。砕導山城は早ければ同四年の降伏時に、 遅くとも高浜城の完成を以て廃されたものと推察される。 <手記> 砕導山城は高山市街を北に見下ろす、標高142mの妙見山を最高所とする山塊に築かれた 山城です。その城域は東西約1kmに及び、西から妙見山(妙見宮曲輪)のほか愛宕宮曲輪、 忠魂碑曲輪、千丈ヶ嶽曲輪、天王山曲輪の少なくとも5つのピークに跨っています。近年、地元 の保存会による整備がかなり進んでいて、私が訪れた時点でこれら5ピークを巡る訪城コース が整えられていました。 登城口は北麓の佐伎治(さきち)神社で、駐車場もあります。砕導山城の特徴は何といっても 天王山曲輪と忠魂碑曲輪下の佐伎治宮曲輪周辺にびっしりと設けられた、雛壇状の削平地群 でしょう。その数は百近いのではないかと思われ、最初に見たときは果樹畑の跡ではないかと 考えたほどです。 他方で、その他のピークについては一般的な山城の構造をしており、いずれも頂部の曲輪と 数段の腰曲輪、そして鞍部の堀切から成っています。この極端な対照性も、昌経の反乱時に 人員の収容用に削平地群を拡張とすれば不思議ではないでしょう。 とはいえ8千人という数字には、個人的に疑問を抱いています。攻城軍は1万1千とすれば、 城兵のわずか1.4倍弱ということになり、いかに非戦闘員が多数含まれるとはいえ完全に包囲 するのは容易ではないと考えられるからです。さらにいえば、攻城方は武田氏と朝倉氏という 大名同士の連合軍であり、そこまで緊密な連携ができていたとは思えません。仮に武田勢が 5千、城内の戦闘員が3千とすれば、夜襲などのヒット&アウェイで主軍である武田方の兵力と 戦意を削ぎ、和議に持ち込む戦術も選択可能だったはずです。にもかかわらず、1か月の攻囲 の間に「所々城数ヶ所落去」(『厳助往年記』)となって降伏したということは、実際の籠城兵は さすがにもっと少なかったからではないかと考えています。 |
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高浜城二の丸跡から砕導山城跡を望む。 画面内の山塊すべてが城域です。 |
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登城口の佐伎治神社。 | |
天王山曲輪下の雛壇状削平地群。 | |
同上。 | |
千丈ヶ嶽曲輪と天王山曲輪の間の鞍部。 | |
天王山曲輪下の腰曲輪群。 | |
天王山曲輪。 | |
天王山曲輪とその下の帯曲輪。 | |
千丈ヶ嶽曲輪東方の腰曲輪。 | |
千丈ヶ嶽曲輪東方の小ピーク。 | |
千丈ヶ嶽曲輪下の堀切。 | |
千丈ヶ嶽曲輪下方の腰曲輪。 | |
千丈ヶ嶽曲輪を見上げる。 | |
千丈ヶ嶽曲輪下の腰曲輪。 | |
千丈ヶ嶽曲輪。 | |
千丈ヶ嶽曲輪西側の堀切。 | |
堀切から延びる竪堀。 | |
同上。 | |
愛宕宮曲輪跡。 | |
愛宕宮曲輪から高浜城跡を望む。 | |
妙見宮曲輪跡。 | |
妙見宮曲輪下の腰曲輪。 | |
忠魂碑曲輪跡。 | |
忠魂碑曲輪下の佐伎治宮曲輪。 | |
佐伎治宮曲輪周辺の削平地群。 | |
同上。 |