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篠ノ丸城(ささのまる) |
別称 : 能見城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 赤松貞範 | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁、虎口 | |
交通 : JR姫新線播磨新宮駅からバスに乗り、 「山崎」下車徒歩30分 |
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<沿革> 赤松円心の子・貞範によって、貞和年間(1345〜50)に築かれたと伝わる。15世紀後半の 長禄の変や応仁の乱を経て、長水城主となった赤松氏の庶流・宇野氏の持ち城となったと みられている。 天正二年(1574)、長水城主宇野政頼は篠ノ丸城主であった嫡男の満景(光景)を殺害し、 次男・祐清を後継ぎとした。背景には、毛利氏に従属していた政頼と親織田氏の満景の対立 があったとみられている。 宇野家臣・内海左兵衛が城代に入れられたが、天正八年(1580)に織田家臣・羽柴秀吉の 攻撃を受けて落城した。『黒田家譜』によれば、続けて長水城が落ち、宇野氏が滅んだ直後 に黒田孝高が「幡州宍栗郡山崎の城」に入り、居城としたとされる。この山崎の城を篠ノ丸城 に充てる説があるが、確証はない。史料上は、孝高が山崎を含む宍粟郡を与えられたのは 天正十二年(1584)のことである。 孝高は天正十五年(1587)に豊前へ移封となった。黒田家が篠ノ丸城を使用していた場合、 廃城はこのときのことと推測されている。 <手記> 篠ノ丸城は山崎の街を見下ろす比高230mほどの山上に築かれています。先端下の支峰の 最上山公園から登山道が整備されており、駐車場も完備されています。市民の手頃な散策路 として親しまれているようで、朝から明らかに城跡が目的ではなさそうな人たちと多く行き違い ました。 特徴としては、まず頂部に成形された矩形の主郭が存在すること、また最高所が主郭では なく、西端の詰曲輪である点が挙げられます。主郭の東辺は深い切岸に、南辺と西辺は浅い 空堀と土塁となっており、南辺の虎口前には区画と呼んだ方が相応しいような広めの曲輪が 展開しています。主郭の北には6〜7段ほどの腰曲輪が連なり、主郭自体の独立性や防衛力 は高いとはいえず、城内の曲輪群については防備より居住性を意識しているような感すらあり ます。 これに対して城内最大の特徴ともいえるのが、北西側斜面にびっしりと設けられた畝状竪堀 でしょう。竪堀の頂部は1本の長大な横堀と交わっており、相当な工事量を費やした防御設備 となっています。さらに、詰曲輪の西側には背後の守りとして三重堀切も穿たれています。 このように、篠ノ丸城はかなり規模の大きな山城であるものの、織豊系城郭としての特徴は みられません。孝高が篠ノ丸城を使用したとしても、おそらく改修はせず宇野氏時代の山城を 修復したのでしょう。そもそも孝高は基本的に秀吉の参謀として近侍していたと思われるため、 本人が宍粟へ下向することがあったかさえ疑わしいといえます。したがって実際には、山麓の 山崎城あたりに代官所が設けられたと考えるのが妥当に思われます。 |
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山崎城跡付近から篠ノ丸城跡を望む。 | |
登山口。 | |
南郭(現地標柱より)。 | |
大手口(現地標柱より)。 | |
主郭土塁と城址碑。 | |
主郭南辺虎口。 | |
主郭南西隅の堀と土塁。 | |
主郭虎口前方の区画。 | |
主郭前方区画の建物跡。 | |
主郭前方区画からの眺望。 | |
主郭下の腰曲輪を見下ろす。 | |
主郭東辺の切岸。 | |
主郭のようす。 | |
主郭の説明板。 | |
主郭北側の腰曲輪群。 | |
同上。 | |
同上。 | |
竪堀。 | |
搦手(現地標柱より)。 | |
北西斜面の横堀。 | |
同上。 | |
畝状竪堀群。 | |
同上。 | |
同上。 | |
詰曲輪。 | |
主郭側から詰曲輪を望む。 | |
詰曲輪から長水城跡を望む。 | |
詰曲輪下の畝状竪堀。 | |
同上。 | |
詰曲輪背後の三重堀切1条目。 | |
堀切から続く竪堀。 | |
同じく2条目。 | |
同3条目。 |