沢良宜城(さわらぎ)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 藤井三位か
 遺構  : 土塁か
 交通  : 大阪モノレール沢良宜駅徒歩10分


       <沿革>
           応永六年(1399)、堺に上陸した大内義弘を足利義満が攻め滅ぼした際、沢良宜城主
          「藤井三位」が将軍足利義持から「御馬廻免状」を受けて出陣したとされる。『応永記』に
          よれば、藤井三位は勝尾寺衆徒のなかでも実力者であったとされるが、城を築いたのが
          三位であったのかは不明である。
           現地説明板によれば、15世紀の早い時期か、遅くとも応仁元年(1467)にはじまる応仁
          の乱の頃に使われなくなったと推測されている。


       <手記>
           南茨木ハイタウン団地の南に隣接する美沢公園角に、石碑と説明板があります。碑文
          と説明は園内側を向いているので少々見つけづらいのですが、上の図に示したところに
          わざわざ「この裏にあります」と案内が出ているので安心です笑
           その東側には鳥居があり、北上すると佐和良義神社があります。この参道は馬場跡と
          伝えられているそうですが、むしろ参道に沿って延びる土塁の方が気になる存在です。
          沢良宜城は茨城川と坊領川に挟まれた、2千坪の敷地を持つ南北に長い城域を有して
          いたようで、土塁はその北東辺と合致します。時代を考えると、要害というよりは土塁や
          堀で屋敷地等を囲んだ惣構えのような城であったものと推察されます。

 「説明板はこの裏にあります」の案内。
説明板と城址碑。 
 佐和良義神社参道と土塁。
同上。 


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