先達城(せんだつ)
 別称  : 小東城、新五郎屋敷
 分類  : 平山城
 築城者: 新五郎か
 遺構  : 土塁、曲輪跡か
 交通  : JR中央本線信濃境駅徒歩30分


       <沿革>
           『諏訪神社神使御頭之日記』に、享禄元年(1528)八月に武田信虎が諏訪へ進軍した
          際、蘿木郷小東の新五郎屋敷を取り立てたとあり、先達城のことを指すとされる。これが
          正しければ、先達城以前に新五郎なる人物の屋敷があったことになるが、新五郎の素性
          については不明である。このとき、武田軍は「神戸」・「堺川」で諏訪頼満と合戦に及んだ
          が、決着はつかなかったとされる。「神戸」については、現在の富士見町御射山神戸と
          考えられているが、「堺川」については、同町内にそのような名の川ないし地名は残って
          いない。当時の甲信国境であったとみられる堺川については諸説あるが、現在の立場川
          を指すとする説が有力である。いずれにせよ、先達城周辺は当時信濃ではなく甲斐国に
          属していたことはほぼ間違いないと思われる。
           天文四年(1535)、信虎と頼満は堺川に会して和睦を誓い、頼満死去後の同九年(15
          40)には、信虎の娘禰々が頼満の孫頼重に嫁いだ。このとき、化粧料として境方18ヶ村
          が諏訪氏に贈られたとする伝承がある。すなわち、これにより現在の通り甲六川が甲信
          の境となったとされる。これが正しければ、先達城も武田氏から諏訪氏の所有へと移った
          ことになるが、史料からは先達城の動向についてはうかがえない。甲信国境の変更は、
          頼重の甥頼忠が天正十年(1582)の本能寺の変後の天正壬午の乱に乗じて行ったもの
          とする説もあり、この場合、先達城の移譲はなかったことになる。
           その後、時期はまったく不明だが、武田家臣多田淡路守常昌が城主に任じられたと
          される。城跡に建つ常昌寺の寺名にもなっているが、一次史料からはその名を見出す
          ことはできない。地元の伝承によれば、常昌は武田氏初期の五名臣の1人に数えられる
          多田満頼(昌澄)の子で、天正三年(1575)の長篠の戦いで討ち死にしたとされる。今日
          寺内に残る常昌の墓碑は、設楽原の古戦場から移されたものと伝わる。他方で、常昌
          を満頼の父とする異説もある。この場合、常昌は諏訪氏の押さえとしてかなり早い段階
          で先達城の守将に任命されたとみるのが妥当と思われるが、逆に長篠の戦いまで存命
          であったとは考えにくい。常昌以後の先達城については不明である。
           ちなみに、多田氏は満頼の孫ないし曾孫といわれる正吉が徳川家康に仕え、旗本と
          して存続している。


       <手記>
           先達城は、鹿ノ沢川の河岸上にあり、現在は常昌寺境内となっています。町史跡に
          指定されており、石碑や説明板が設置されています。本堂北側の墓地は本堂より高所
          にあり、直感的には主郭のように見えます。墓地の周囲に土塁と思われる箇所が散見
          されますが、周辺が宅地や道路建設で開発されているので、確実とはいえません。
           一見すると独立丘のようにみえますが、城跡の北の県道17号線が切り通して走って
          いるためで、実際には河岸の緩やかな尾根先を利用してつくられているいるようです。
          ただ、この切通しが城の堀切跡を崩したもののようにもみえます。
           かつては城の東側にも堀跡があったようですが、駐車場建設などで失われてしまった
          ようです。その他に、遺構らしきものは見当たりません。
           先達城については、城主と伝わる多田淡路守常昌という人物が一番の問題といえる
          でしょう。訪れたうえでの私見としては、満頼の子というよりは父という方が可能性が
          高いのではないかと思います。先達城は、鹿ノ沢川側は急崖となっていますが、他の
          三方は要害性のほとんどない緩斜面です。したがって、諏訪郡側からの攻撃を凌ぐと
          いう以上の役割は期待できません。『日本城郭大系』に指摘されている通り、武田軍が
          信州へ向かう際の中継地点としては使用されたかもしれませんが、諏訪氏を滅ぼした
          後は、少なくとも城としてはほとんど価値を失っていたはずです。
           したがって、多田氏ほどの重臣が城主に任じられるならば、それは先達城が重要な
          前線拠点であった、天文十一年(1542)の諏訪侵攻以前のこととするのが妥当である
          と考えられます。多田満頼の生年は定かでありませんが、没年が永禄六年(1563)で
          あることや、記録に現れるのが天文九年(1540)の小荒間の戦い(『甲陽軍鑑』)以降
          であることから、常昌が満頼の子とすると、諏訪侵攻時点でもかなり若年であったこと
          になります。それよりは、常昌は満頼の父であり、ベテラン重臣として諏訪氏との国境
          を任されたとみる方が、状況的に推察すると妥当なように感じられます。

           
 城址碑(右)と説明板。
常昌寺本堂。 
 本堂北側の墓地の土塁状地形。
同上。 
 本堂北の墓地。主郭跡か。
西から鹿ノ沢川越しに先達城址を望む。 


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