太田城(おおだ)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 太田頼基
 遺構  : なし
 交通  : JR京都線総持寺駅徒歩20分


       <沿革>
           平安時代末期に太田太郎頼基が築いたと伝わる。頼基は源(多田)満仲の次男頼親の
          後裔であるが、太田を称したのは祖父頼遠からとされ、居館自体は同地にそれ以前から
          あったと推測される。
           『平家物語』には、都落ちした源義経一党が大物浦から西国へ向かおうとした際、頼基
          は「我が門の前を通しながら、矢ひとつ射かけであるべきか」といって60騎を率い出撃し、
          河原津で義経500騎と一戦交えたが、敗れて退却したとある。
           『足利季世記』によれば、16世紀前半の両細川の乱に際し太田城は細川高国に属して
          いたが、大永七年(1527)二月に細川晴元方の波多野元清が太田城を含めた摂津諸城
          を開城させた。しかし、太田頼基の居館とこの太田城が同一の場所にあった確証はなく、
          頼基以来300年以上にわたる太田城の動静は不明である。
           続く桂河原の戦いで晴元方が勝利すると、太田城はそのまま廃城となったと考えられて
          いる。


       <手記>
           イオンタウン茨木太田北辺の道路沿いに石碑と説明板がありますが、遺構はありません。
          イオンタウンの敷地には昭和35年(1960)に建設された東芝中央倉庫があったということ
          で、旧状は早い段階で分からなくなっていたようです。
           現地説明板および『日本城郭大系』の図、さらに国土地理院地図の年代別航空写真を
          総合すると、太田城は安威川沿いの舌状の沖積地を利用していて、石碑から道を挟んで
          イオンタウン建物の南東隅付近がその先端であったとみられます。北端は安楽寺南側の
          道路とみられ、城域の北半は字城の口、南半は字城の山といったそうです。

 太田城址碑と説明板。
北西の太田橋から太田城跡を望む。 


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