鹿野城(しかの)
 別称  : 王舎城、鹿奴城、志加奴城、鹿奴陣屋
 分類  : 山城
 築城者: 志加奴氏
 遺構  : 石垣、堀、土塁
 交通  : JR山陰本線浜村駅からバスに乗り、
      「立町」下車徒歩5分


       <沿革>
           土豪・志加奴氏によって築かれたと考えられているが、詳細は不明である。志加奴氏の出自は
          定かでなく、明徳二/元中八年(1391)の明徳の乱において、山名氏に従って上洛し、幕府軍と
          戦って討ち死にした武将の一人に、『後太平記』に志加奴七郎の名が見えるのが初出とされる。
           天文十三年(1544)、尼子晴久が因幡へ侵攻し志加奴城を攻撃した。城主志加奴入道は300の
          兵で奮戦するも、自刃して落城したとされる(『陰徳太平記』)。
           永禄六年(1563)、鳥取城主武田高信が因幡守護・山名豊数に反旗を翻すと、豊数は同年中に
          居城の布勢天神山城を逐われ、鹿野城へと退いた。一説には、元守護・山名誠通の子・豊成が
          鹿野城にあったものの、豊数入城に前後して高信に毒殺されたとされる。豊数も同八年(1565)
          までに死去したとみられ、代わって山名豊儀の名が現れる。豊儀については豊数の子、あるいは
          豊数の弟・豊国の前名、誠通の子などといわれるが、いずれも確証はない。
           高信は毛利氏に従属したが、天正元年(1573)には豊国が鳥取城を奪ってやはり毛利氏に臣従
          した。このころ、鹿野城には毛利家臣の三吉三郎左衛門・進藤豊後守が城番に入っていたといわ
          れる。同七年(1579)には、織田氏に通じた羽衣石城主南条元続に攻められた堤城主山田重直・
          信直父子が鹿野城へ逃げ込んでいる。
           天正八年(1581)、織田家臣・羽柴秀吉が鳥取城を攻略すると、亀井茲矩が鹿野城主となった。
          慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに際し、茲矩は東軍に属して鳥取城攻めなどに参加した。戦後、
          高草郡2万4千石を加増され、3万8千石の大名となった。茲矩によって鹿野城は近世城郭に改修
          され、王舎城の雅称を付されたとされる。また、城下町を仏教の聖地にちなんだ鹿野苑を名付け、
          秀吉の琉球守を所望して名乗るなど、茲矩についての奇抜な逸話が残されている。
           元和三年(1617)、茲矩の子・政矩は津和野へ移封となり、代わって姫路藩主池田光政が因幡
          国主となった。鹿野城には家老・日置忠俊が入れられたが、光政は寛永九年(1632)に岡山藩主
          池田光仲と入れ替わりとなり、鹿野には代官として佐藤知之が派遣された。寛永十七年(1640)、
          お家騒動で改易された光仲の叔父の山崎藩主池田輝澄が鳥取藩預かりとなり、鹿野に堪忍料
          1万石を与えられた。輝澄は寛文二年(1662)に死去したが、城館としての鹿野城は、それ以前に
          廃されていたとみられる。
           明治元年(1868)十二月、鳥取東館新田藩主の池田徳澄が鹿野城跡に藩庁を移し、鹿奴藩を
          称した。鳥取東館新田藩は光仲の次男・仲澄に始まる鳥取在府3万石の支藩で、徳澄は10代目
          にあたる。しかし、翌二年(1869)に自ら廃藩を申し出て、鳥取藩に吸収された。これにより、鹿奴
          陣屋もわずか1年足らずで廃止となった。ちなみに当時の鳥取藩主池田慶徳も、財政難を理由に
          廃藩置県を自ら率先して提案したことで知られる。


       <手記>
           鹿野城のある気多郡は鳥取平野の一つ西側に位置し、南北に長い丘陵が筋雲のように並んで
          いるのが特徴です。鹿野町はその南端近くにあり、平野部を形成する河内川や未用川の喉口部
          にあたります。
           城山は標高152mで、特徴的な円錐形をしており、山城部と麓の近世城館部の2段構成となって
          います。山麓の本丸と二の丸それぞれに広い水濠が巡り、とくに二の丸は、東西の土橋を除けば
          浮島のようになっているのが特徴です。二の丸には市立鹿野学園の学舎が建ち、本丸はかつて
          グラウンドだったようで、更地となっていました。西堀端の石碑によれば、二の丸の石垣は養生の
          ために新しく積まれたもので、内側に当時の石垣が眠っているそうです。また、本丸北西隅付近
          には、苔むした古い石垣が残っています。
           山城部には妙見社が建っていたり水道施設があったり、それらのための作業道が設けられて
          いたりで、どこまでが旧地形か分かりづらい面があります。ただ、山頂の天守台周辺は腰曲輪群
          などの様子を留めているようです。部分的に石垣が見受けられ、裏込石とみられる多数の小石も
          散乱していました。おそらく亀井氏時代には、実際に天守建築が上げられていたのでしょう。

 鹿野城跡全景。 
二の丸の水濠。 
 同上。
東堀端から本丸越しに城山を望む。 
 本丸南東隅の薬研堀。
二の丸の土塁。 
 本丸と水濠。
本丸北西隅の石垣。 
 同上。
本丸跡現況。 
 城山の妙見社。
天守台跡。 
 同上。
天守台周辺に残る石垣。 
 同上。
裏込石か。 
 天守台下の腰曲輪。


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