白旗城(しらはた)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 赤松則村(円心)
 遺構  : 曲輪、石塁、土塁、堀、虎口、井戸跡
 交通  : 智頭急行河野原円心駅徒歩90分


       <沿革>
           赤松円心によって築かれたが、その時期については円心が討幕の兵を挙げた元弘三年
          (1333)とする説と、足利尊氏に従って建武政権から離反した建武二年(1335)以降とする
          説がある。
           翌建武三年(1336)、尊氏追討のため新田義貞率いる6万と称する大軍が差し向けられ、
          円心はこれを白旗城で迎え撃った。『太平記』には籠城にあたって白旗城が修理されたと
          あることから、このときより前に築かれていたものとみられる。
           新田軍が迫ると、円心はまず義貞に使者を出し、天皇が当時没収されていた播磨守護職
          に改めて輔任する綸旨を発給してくれるなら臣従する旨を伝えた。義貞は10日ほどかけて
          使いを立てて、綸旨を得てきたが、この間に籠城戦の準備を整えた円心は、義貞の使いを
          追い返して対決姿勢を明らかにしたという(『太平記』)。
           赤松勢は2千ほどであったが、追討軍は険阻な白旗城を攻めあぐね、50日余を費やしたと
          される。この間に九州では尊氏が勢いを盛り返し、海陸二手に分かれて京への進軍を開始
          した。知らせを受けた新田軍は撤退を決定したが、長引く城攻めで厭戦気分が漂っていた
          ところ、円心の追撃を受けて潰走したとされる。この功により、円心は尊氏から播磨守護に
          任じられた。
           嘉吉元年(1441)、円心の玄孫にあたる赤松満祐は、万人恐怖と畏れられた将軍・足利
          義教を京の自邸で殺害した。播磨へ戻った満祐は、足利直冬の孫・義尊を擁立し、国内に
          防衛体制を布いた。しかし、討伐軍が3方面から攻め込み国境が破られると、当時の守護所
          であった坂本城は戦闘に向かなかったため、城山城に立て籠もった。まもなく城山城も攻囲
          されると、満祐は一族69名と共に自害した。一説に、当初は白旗城へ向かうつもりであった
          が、既に落城していたため、城山城に入ったともいわれる。
           明応八年(1499)、再興した赤松家の守護代であった浦上則宗は、対立する庶流の浦上
          村国との戦いに敗れ、白旗城に籠城した。村国軍の攻勢によって落城寸前にまで至るが、
          浦上家臣・宇喜多能家(直家の祖父)の奮戦により、村国を撤退させることに成功した。
           その後の白旗城については定かでない。


       <手記>
           新田義貞の大軍を50日も釘付けにしたことで高名な白旗城ですが、その西麓が赤松氏の
          本貫地であるとは、調べるまで知りませんでした。白旗城は、赤松氏館の東方に横たわる
          標高440mの白旗山に築かれ、東西両麓から登れるようですが、駐車場なども完備されて
          いる西側が表ルートといえます。登山道といっても、途中からは谷筋のガレ場を這い上がる
          感じとなり、さすが新田軍を苦しめただけはあるしんどさでした。途中の左手には、新田勢を
          陰から攻撃して苦しめたという「嘆きの岩壁」もあります。
           登り詰めた先の鞍部で東麓からのルートと合流し、さらに少し上がると城域南端の堀切が
          現れます。その上には大手虎口があり、脇には石塁の跡も見られました。
           白旗城は大きく3つのピークに跨っており、それぞれ北から本丸、二の丸、(伝)櫛橋丸を
          頂点としています。櫛橋丸は南端に磐座とみられる巨岩群があり、前後の尾根にたくさんの
          腰曲輪が連なっていますが、いずれも曲輪形成は未熟です。おそらく時代を経ても改修の
          手がほとんど入らず、古いままの状態を残しているように思われます。
           二の丸は、打ってかわって直線を基調として丁寧に成形された矩形2段構えの区画です。
          下段南東隅には石塁も見られます。その石塁の先から腰曲輪を伝って下りていくと、谷筋に
          侍屋敷と伝わる広めの削平地があり、石組みの井戸跡も残っています。その周辺にも石塁
          が点在し、私が見たなかではもっともしっかり残っている箇所でした。
           二の丸と本丸の間の鞍部には、細長く均した馬場丸と伝わる区画が延びています。鞍部を
          土橋状に削ったり堀切で断ったりするのではなく、逆に幅広に均して一枚の曲輪にする手法
          は、赤松領内の山城でしばしばみられる特徴のように感じます。
           本丸は北西尾根下に三の丸を従えており、三の丸の下には、だいぶ埋まっているものの
          堀切が残っています。また、北東の腰曲輪を下りると、やはり均された鞍部を経て、曲輪跡と
          呼んでよいのかも微妙な細峰に通じます。縄張り図によっては、ここも磐座としています。
           このように、本丸域や二の丸域がかなり整えられているのに対し、多くの磐座とみられる
          露岩群が点在していることから、元は修験道の場として開かれた山を赤松円心が取り立てた
          と考えるのは難しくないところでしょう。それゆえ、場合によっては築城から1年未満で新田軍
          を迎え撃ったにもかかわらず、長期にわたり籠城戦を続けられたものと推測されます。
           ちなみに記録上は一度も落城していないとかで、本丸には「落ちない」城として合格祈願の
          絵馬掛所が設けられていました。個人的には、こんな山に登れる元気と時間があるなら勉強
          した方が…と思ってしまいましたが^^;

 西から白旗山を望む。
西麓の登山口。 
 登り始めてすぐの栖雲寺跡。
登山途中のガレ場。 
 嘆きの岩壁。
南端の堀切。 
 大手虎口跡。
虎口脇の石塁。 
 同上。
櫛橋丸南下の腰曲輪。 
 同上。
櫛橋丸。 
 櫛橋丸北側のようす。
櫛橋丸から本丸方面を望む。 
 二の丸下の腰曲輪群。
同上。 
 二の丸跡。
二の丸南東隅の石塁。 
 伝馬場丸。
伝桜門跡。 
 本丸下の腰曲輪群。
本丸跡。 
 本丸跡の絵馬掛所。
三の丸を俯瞰。 
 三の丸の土塁。
三の丸から本丸下の腰曲輪群を見上げる。 
 三の丸下の堀切。
本丸北東下の腰曲輪。 
 本丸北東下の鞍部曲輪。
鞍部の先の細峰。 
 二の丸東下の腰曲輪。
その下の伝侍屋敷。 
 侍屋敷の石組み井戸跡。
侍屋敷周辺の石塁。 
 同上。
同上。 


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