泊古城(とまりこ) | |
別称 : 泊城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 宮本氏か | |
遺構 : 曲輪、切岸、堀跡 | |
交通 : 本島港から徒歩10分 | |
<沿革> 塩飽水軍の船大将の1人、宮本氏の居城とされる。『吾妻鏡』の寛元四年(1246)の条に藤原 (香西)左衛門尉家資が幕命を受けて塩飽の海賊追捕を行ったとあり、宮本氏や同じ船大将の 吉田氏はその子孫とされる。ただし、家資の系譜上の位置は明らかでなく、『香西記』などでは 香西氏2代・香西忠資ないし3代・資茂を祖としている。 その後も塩飽水軍は香西氏に属して活躍し、宮本伝太夫は天正五年(1577)に織田信長から 朱印状を与えられ、堺津における塩飽船の自由航行が認められている。同十八年(1590)には 豊臣秀吉によって1250石が島中船方650人に配分された。 宮本家は江戸時代にも島内の最高職である4家の年寄の1つとなったが、泊古城がいつごろ まで存続したのかは定かでない。 <手記> 泊古城は、丸亀からの連絡船が着く本島港の北西300mほどのところにあります。先端麓には 伝太夫以下の宮本家累代の墓があり、そこから山手に入って右手の丘が城山です。先端から 分け入ってみるも藪が酷く、もう少し道路を遡っていくと、民家の反対側に入れそうな切れ目が あり、城跡の付け根側に取りつけます。 とはいえこちらも進むのは難儀で、切岸や堀・土橋などが辛うじて確認できましたが、郭内は 猛竹藪でとても入れませんでした。おそらくは、ほぼ単郭の館城であったものと思われます。 |
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西麓から泊古城跡を望む。 ここから裏手へ分け入れます。 |
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背後の切岸。 | |
同上。 | |
堀切および土橋跡。 | |
郭内を覗き見る。 | |
城山西側のようす。 | |
年寄宮本家の墓。 |