勝瑞城(しょうずい)
付 勝瑞館
 別称  : 阿波屋形、下屋形
 分類  : 平城
 築城者: 小笠原長清
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : JR高徳線勝瑞駅徒歩10分


       <沿革>
           一般に、四国管領細川頼之に従って阿波を平定した弟の詮春によって、正平十八/
          貞治二年(1363)に築かれたといわれる。ただし、詮春の事績については不明な点が
          多く、勝瑞城の築城についても興国三/暦応三年(1340)に頼之・詮春兄弟の叔父
          和氏が隠居城として築いたとする説(『細川三将略伝』)や興国元/暦応元年(1338)
          に和氏の兄で頼之らの父である細川頼春が築いたとするもの『細川岡城記』、さらに
          は承久三年(1221)の承久の乱の戦功により阿波守護となった小笠原長清が守護所
          として築いたとする説もある。勝瑞の名は、細川氏が戦勝を記念して改称したものと
          される。以後、阿波守護細川氏(讃州家)の居館となり、勝瑞は四国の一大文化拠点
          として発展した。
           戦国時代に入って阿波守護代格であった三好氏が台頭し、三好長慶が細川本家
          (京兆家)の重臣から戦国大名化すると、長慶の弟三好実休(義賢、之虎)が兵権を
          握った。天文二十二年(1553)、実休は名目上の主筋である阿波守護細川持隆を
          見性寺で自害させ、勝瑞城を奪った。持隆の子真之は実休に傀儡として擁立された
          が、阿波守護としての細川氏はここに滅亡した。
           実休は永禄五年(1562)の久米田の戦いで討ち死にし、跡を長男の長治が継いだ。
          長治は重臣篠原長房を討つなど強権的に振る舞ったことから家中の不和を生み、
          これを機と見た真之が勝瑞城を脱出した。真之は長治の統治に不満をもつ阿波国人
          や土佐の長宗我部元親の支援を受け、天正五年(1577)に荒田野で長治を討った。
           三好本家は天正元年(1572)の三好義継の死をもって断絶しており、三好家中は
          讃岐を統治していた長治の弟十河存保を擁立し、存保は同六年(1578)に勝瑞城に
          入った。
           存保は織田信長に通じて長宗我部氏の侵攻に対抗していたが、天正十年(1582)
          に信長が本能寺の変に斃れると後ろ盾を失った。同年八月の中富川の戦いで存保
          が敗れると、長宗我部軍はそのまま2万の兵で勝瑞城を囲んだ。この時の包囲には
          紀伊の雑賀衆も攻城方の援軍として参加している。しかし、九月五日から5日間に
          わたって大雨が降り続き、吉野川以下多くの河川が氾濫し、一帯は池沼と化した。
          攻城側の兵卒は人家の屋根や木に登って待避していたが、籠城方は小舟を出して
          敵兵を長柄の槍で突き刺して回ったとされる。
           元親は本陣を現在の高松自動車道沿いの光勝院に移し、水が引くと攻撃を再開
          した。存保は徹底抗戦したが、九月二十一日についに開城し、讃岐国へ撤退した。
          勝瑞城はそのまま廃城となったとされる。


       <手記>
           現在の勝瑞周辺には、北に旧吉野川、東に今切川、そして南西には正法寺川が
          流れています。吉野川河口の低湿地帯なので、当時の河道については推測するの
          も困難ですが、もっと吉野川が近くを流れていて、河港を通じて海とつながっていた
          と考えられています。
           城の本丸とみられるところには見性寺が建っていて、四周の水濠が良好に残って
          います。境内北西隅には土塁の痕跡もあり、また南東隅近くにある三好氏累代の
          墓所も土塁跡といわれています。境内には説明板も設置されていますが、見性寺
          自体はあまり城跡には興味がなさそうです…。
           近年、見性寺南西の区画で広範囲の発掘調査が行われ、濠で囲まれた規模の
          大きな館跡が見つかっています。三好実休の居館跡と推定されていて、ほかにも
          枯山水庭園や礎石建物跡なども検出されています。この区画は史跡公園整備が
          続けられているそうですが、私が訪れたときはまだ調査中だったのか、なぜか気が
          つきませんでした。

       <追記>
           およそ5年あいて、再訪する機会に恵まれました。目的はもちろん前回行っていな
          かった勝瑞館跡です。基本的には遺構は埋め戻されていて、堀などがコンクリート
          で地表復元されていました。礎石建物跡に四阿風の建物があったり、枯山水庭園
          跡に石が配されていたりするのですが、いかんせんなんとも寂しい空き地で、これ
          を見て三好氏の栄華を偲べる人がどれくらいいるのだろうかと、勝手ながら不安に
          なりました。
           おそらく整備の途中だと思いますが、あまり学者先生の自己満足にばかりお付き
          合いせず、市民の資産として長く残せるような保存方法を考えてほしいものです。

           
 本丸跡に建つ三好氏の菩提寺の見性寺。
見性寺南辺の水濠。 
 西辺の水濠。
北辺の水濠。 
 北西隅の土塁。
土塁跡とされる三好氏累代の墓。 
 勝瑞館跡のようす。
 コンクリで固められているのは堀跡。
堀が二重になっている部分。 
 館内の区画溝。
建物礎石跡の上に立てられた四阿風建物。 
 堀底の深さを再現した箇所。


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