シュトルツェンフェルス宮 ( Schloss Stolzenfels) |
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別称 : シュトルツェンフェルス城 | |
分類 : 山城(Hangburg) | |
築城者: アルノルト2世・フォン・イーセンブルク | |
交通 : レンス駅徒歩40分 | |
地図 :(Google マップ) | |
<沿革> 1242年から1259年の間に、トリーア大司教アルノルト2世・フォン・イーセンブルクによって築かれた とされる。同じころにライン川を挟んで対岸に建てられたマインツ大司教のラーンエック城に対抗する ためで、当初はシュトルツェンフェルス城と呼ばれていた。城名の由来は、城将であったヴァルター・ フォン・シュトゥルツェンフェルスにちなんだものといわれている。1388年から1418年にかけて、城は トリーア大司教のライン河岸における居所として拡張・整備された。 三十年戦争さなかの1632年には、スウェーデン軍によって、1634年と1636年にはフランスの軍勢 に占領された。プファルツ継承戦争中の1689年にフランス軍によって爆破されてからは、廃墟として 打ち捨てられた。 1802年、シュトルツェンフェルス城跡の廃墟はコブレンツ市の所有となった。1815年にはプロイセン 皇太子フリードリヒ・ヴィルヘルム(後のプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世)に寄贈された。 1823年にフリードリヒ・ヴィルヘルムがエリーザベト・ルードヴィカ・フォン・バイエルンと結婚する と、シュトルツェンフェルス城址はその祝いとして、コブレンツ市長アーブンディウス・メーラーに下賜 された。 1836年から、ベルリンの都市計画にも携わった建築家カール・フリードリヒ・シンケルらの指揮の下 シュトルツェンフェルス城の再建が始まった。シンケルは1841年に死去したが、その後もその弟子に あたるフリードリヒ・アウグスト・シュトゥーラーが建設を指揮した。かつての城跡の基壇をデザインに 取り込んだ新古典主義の豪華な建物は、シュトルツェンフェルス宮と呼ばれるようになった。1842年 に普請が完了し、プロイセン王家の夏宮として利用された。 現在は、ラインラント=プファルツ州の管理下に置かれている。 <手記> シュトルツェンフェルス宮は、コブレンツ中心街の南3kmほどに位置し、ライン川の支脈グリューント ゲス川の合流点に突き出た峰先の城です。マインツからライン川クルーズに乗っていると、まもなく メインのライン渓谷が終わって次の都市に入るんだと気が抜けてくる頃にあたります。平野も増えて 人家の間に城跡や宮殿を見つけるのがややしんどくなってきますが、そんななかでも山側にあって すぐにそれと見分けがつく城館です。 中心部を占める派手な建物は一見してラインロマネティークの「宮殿」と分かりますが、基壇部分 に目をやれば、中世的な城跡を残しています。とくに上から見ると、「宮殿」ではない「城」の外周の 縄張りを認めることができるでしょう。 現在は観光客に公開されているほか、結婚式場としても使われているようです。某ランドのような 偽物の城での挙式に大枚をはたくくらいなら、もう少し奮発して「本物」を利用してみてはいかがで しょうか。 |