菅沼城(すがぬま)
 別称  : 下山城
 分類  : 平城
 築城者: 菅沼定清か
 遺構  : 堀、土塁
 交通  : JR信越本線磯部駅徒歩20分


       <沿革>
           菅沼治郎右衛門定清の居城と伝えられる。築城時期や、定清が築城主であるかなど、
          詳細は不明である。定清についても出自が明らかでないが、一般的には三河国額田郡
          に蟠踞した徳川家臣菅沼氏の一族とみられている。天正十八年(1590)に徳川家康が
          関東へ移封されると、田峯菅沼氏の菅沼定利が上州吉井2万石を、野田菅沼氏の菅沼
          定盈が武州阿保(阿布)1万石を与えられた。菅沼氏の系図に定清の名はみられないが、
          菅沼氏の一族が小禄をもってこの地に封じられた可能性は十分考えられる。
           他方で、吉井町塩川には、永禄六年(1563)に武田信玄に攻め滅ぼされた菅沼大膳
          之孝なる人物がいたとされている。あるいはこの菅沼氏との関連も考えられるが、詳細
          は不明である。


       <手記>
           菅沼城は、磯部温泉対岸の碓氷川河岸に位置しています。現在、城域は海雲寺境内
          となっています。城址碑や案内はありませんが、周囲を堀と土塁に囲まれているため、
          見る人が見ればすぐに城跡と分かります。
           『日本城郭大系』の縄張り図では二重の堀と土塁に囲まれていますが、現在では一重
          しか残っていません。おそらく、内堀を埋めて境内を広げたものと思われます。寺の南西
          の崖端には、内堀跡と思われる箇所が崖下の公園に下りる緑道として残されているよう
          です。
           城主の菅沼定清という人物については名前以外の一切が不明ですが、徳川家臣菅沼
          氏の一族で、天正十八年以降にこの地に城を築いたという点で大勢の見方は一致して
          いるようです。たしかに、縄張り図を見る限りでは、折れと直線を組み合わせた近世的な
          つくりをしており、16世紀後期の形態であるように見受けられます。
           ただし、立地的には崖端の館城ということできわめて中世的であり、家康入封以前に
          すでに城館が営まれていた可能性も否定できません。それが塩川城主菅沼氏の一族だ
          などと安易に結びつけるつもりはありませんが、家康家臣が新築したとするのも、やや
          引っかかるような気がします。

           
 菅沼城址に建つ海雲寺。
門脇の堀。 
 同じく西側の堀跡。
土塁。 
 崖端の内堀跡。


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