須沢城(すさわ)
 別称  : 栖沢城
 分類  : 山城
 築城者: 逸見氏か
 遺構  : 塚、削平地
 交通  : JR中央本線甲府駅からバス
       「塩の前入口」バス停下車徒歩20分


       <沿革>
           正平五/観応元年(1350)、足利家執事高師直と足利尊氏の弟直義が対立して観応の擾乱
          に発展すると、師直の従兄弟で関東執事の高師冬は直義派の上杉憲顕に敗れ、甲斐国の須沢
          城へ逃れた。当時の城主は『太平記』にもその名がみえる逸見孫六入道ともいわれるが、確証
          は得られていない。また、須沢城がすでに存在していたのか、あるいはこのときに築かれたもの
          かも定かでない。
           須沢城はまもなく直義方の諏訪直頼の軍勢に包囲され、翌正平六/観応二年(1351)一月
          十七日に落城した。師冬は自害したが、もとの須沢城主の処遇については不明である。この後、
          須沢城が史料に登場することはなく、師冬の滅亡とともに廃城となったものと推測される。
           ちなみに、城址内に建つ善応寺は弘安年間(1278〜87)に笹見浦政綱なる人物を開基として
          建立されたと伝わる。笹見浦氏の出自や、須沢城との関連については詳らかでない。


       <手記>
           須沢城は、御勅使川の喉口部に突き出た峰の中途に位置しています。現在、城域の大部分
          は果樹園となっているようで、斜面を登りつめたところに善応寺境内があります。善応寺は今日
          では残念ながら廃寺となっていて、観音堂のみが取り残されるように建っています。その脇には
          城主某のものと伝わる宝篋印塔があり、貴重なよすがといえます。観音堂の周辺には、切岸状
          になっていたり石積みがあったりするのですが、これらは城跡というよりおそらく寺の遺構なので
          しょう。
           城域の先端近くには説明板があり、その背後には塚状の地形が認められます。説明板には
          しっかり須沢城址と書かれているものの、肝心の本文はほとんど風化してしまっていて読むこと
          はほぼ不可能な状態です。塚については土塁や門の土台のようにも見え、こちらの方は城との
          関連も十分考えられるように思われます。このほか、城域内に古い井戸が2ヶ所ほどありました
          が、こちらも城との関係については不明です。ただ、形式をみるに少なくとも戦前には遡るものと
          拝察されます。
           城内は、周囲と比べて極端に緩やかな斜面となっています。おそらく、ここにはかつて善応寺
          の僧坊か何かが建ち並んでいたのではないかと考えられます。山岳寺院を臨時の城砦に転用
          するのは南北朝時代のトレンドでしたから、可能性は高いものと思われます。ですので、城とは
          いうものの城郭らしい遺構についてはあまり望むべくもないのではないかと推測されます。


           
 須沢城址遠望。
須沢城址説明板。 
 説明板背後の塚状地形。
善応寺観音堂。 
 観音堂前の切岸状地形。
城主某のものと伝わる宝篋印塔。 
 観音堂周辺から城内を俯瞰する。
井戸その1。 
 井戸その2。


BACK