台北府城(たいほく) | |
別称 : 台北城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 清朝 | |
交通 : 台北駅徒歩5分 | |
地図 :(Google マップ) | |
<沿革> 1874年の台湾出兵の結果、琉球の日本への帰属が国際的に認知されると、清朝は 台湾防衛の必要性を覚えた。翌1875年、林則徐の娘婿で、台湾出兵時に欽差大臣を 務めた沈葆楨の建議により、台北建府が決定された。 既に商業地として発展していた艋舺と大稲埕の間の未開拓地に府城の造営が計画 され、1879年から普請が進められたとされる。1882年には城門の建設が始まり、完成 は2年後の1884年であった。 1895年の日清戦争により台湾が日本へ割譲されると、これに反対する清朝の官僚 や軍人は台湾民主国を打ち立てたが、国際的な承認は得られなかった。同年6月に 日本軍が基隆に上陸すると、民主国側は組織的な抵抗もできずに台北は混乱した。 このとき台北の商人・辜顕栄が使者として基隆へ赴き、日本軍を台北城北門まで案内 して無血入城させた。 日本の統治機構である台湾総督府は、1899年の第一次市区改正計画で台北城の 城壁を崩して市街のインフラ整備に充てることを決定した。翌1900年には西門が取り 壊されたが、台北住民が強く反発したため、他の4つの門については保存されることに なった。ただし、城壁はすべて崩れ堀も埋められ、防衛施設としての台北府はここに 廃絶となった。 <手記> 日本統治時代以来の台湾の首都・台北に築かれた都城ですが、意外にも完成して から15年程度しか存続していません。台北自体、府城が築かれるまで艋舺(現在の 龍山寺周辺)や大稲埕(同じく迪化街周辺)が、河港として局所的に栄えていたのみ だったようです。 台北府城は風水を採り入れて設計されているのが特徴で、西辺と東辺を北へ延長 すると七星山で交わり、また城内施設の中央路は北極星へ向かっているそうです。 そのため、城内の施設群はほぼ真北を向いているのに対し、外郭は東側へやや傾斜 してずれた格好となっています。風水に基づく石造の城としては、清朝最後のものだ そうです。 現在は上述の通り、西門を除く4つの城門が残っています。正門は北門(承恩門)で、 外郭の傾きにより北辺城壁の北西側に寄った位置にあります。台北駅のすぐ西側に あるので訪れやすいものの、2026年3月まで修復工事が行われているようです。 唯一取り壊された西門の跡には、見つけづらいですがV字路の舳先に小さな石碑が 建てられています。西門跡西側の西門町は、日本の渋谷に相当する若者の街として 有名で、西門紅楼など歴史的な建物もあるものの、とくに夜はフレッシュな賑わいに 包まれていました。 南辺には南門(麗正門)と小南門(重熙門)、東辺には東門(景福門)があり、なべて 大通りの交差点内に佇んでいます。石門の上にはそれぞれ楼閣が乗っていますが、 上階部分はすべて戦後の国民党政権によって改変されたのだそうです。 城壁に沿って歩けば、西門町や総統府(旧台湾総督府)、中正紀念堂といった観光 スポットも巡れるので、お城にそこまで興味のない人でもお散歩感覚で訪ねてみては いかがでしょう。 |
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北門(承恩門)。 | |
同上。2026年3月まで修復工事中だそうです。 | |
北門脇の石材展示。 | |
西門(宝成門)跡。 | |
宝成門跡石碑。 | |
小南門(重熙門)。 | |
同上。 | |
南門(麗正門)。 | |
同上。 | |
東門(景福門)。 | |
おまけ:総統府(旧台湾総督府)。 |