高鍋城(たかなべ)
 別称  : 財部城、舞鶴城
 分類  : 平山城
 築城者: 土持秀綱
 遺構  : 石垣、堀、土塁
 交通  : JR日豊本線高鍋駅よりバス
      「舞鶴公園前」バス停下車


       <沿革>
           斉衡年間(854〜57)に、土持秀綱によって築かれたと伝わる。江戸時代に改称されるまで、
          高鍋は「財部(たからべ)」と呼ばれていた。土持氏は、宇佐神宮神職の田部氏の後裔で、縣
          土持氏を本家として日向国内に一族が根付いていた。秀綱は、縣土持通綱の弟景綱の子で、
          有力分家の1つ財部土持氏の祖となった。
           長禄元年(1457)、財部・縣の土持連合軍は伊東祐堯と戦ったが(小浪川の戦い)、敗れて
          財部家当主高綱とその父ないし弟の金綱が討ち死にした。跡を高綱の子是綱が継いだが、
          まもなく祐堯に屈して城を逐われた。祐堯は、重臣落合氏を財部城主に封じた。
           天正五年(1577)、島津氏の攻勢に抵抗しきれなくなった伊東義祐は、一族郎党を連れて
          豊後へ落ち延びようとした。しかし、財部城主落合民部少輔兼朝は、義祐一行の通過を認め
          なかった。背景には、兼朝の子丹後守が、義祐の側近として専横を極めた伊東帰雲斎祐松
          を排除しようとして返り討ちに遭ったことがあった。兼朝は通行の条件として帰雲斎の成敗を
          要求したが、義祐はこれを容れず、やむなく冬の米良山中を迂回するルートをとった。
           兼朝は島津氏に寝返り、財部城には島津家臣川上忠智が入った。天正十五年(1587)、
          豊臣秀吉が島津氏を降すと、財部は秋月種実の所領となった。種実・種長父子は櫛間城を
          居城とした。
           慶長九年(1604)、種長は居城を財部城に移し、同十二年(1607)より城の改修を始めた。
          山上には天守に相当する三階櫓が建てられ、城山の背後には野首の堀切が穿たれた。延宝
          元年(1673)、3代藩主種信は、幕府の許可を得て城のさらなる改修に乗り出した。この普請
          は主に山麓の政庁部分の整備を目的とするもので、現在の二の丸の1段上に本丸と御殿が
          造営された。こうして、財部城は御殿様式の近世城郭となり、このときに「財部」から「高鍋」へ
          改称された。
           以後、高鍋藩は秋月家10代を数えて明治維新を迎えた。


       <手記>
           高鍋城は、北に小丸川を控え、南は宮田川に面した丘陵の先端部分に築かれています。
          現在城跡一帯は、舞鶴公園や舞鶴神社境内、歴史総合資料館などになっています。
           上記の通り、高鍋は近世城郭のなかでは突出して古い歴史をもっているのですが、どうも
          町はあまり観光には関心がないようで、知名度も現地の整備状況も今ひとつです。とりわけ
          困ったのは、資料館にすらまともな縄張り図がないということです。高鍋城は、近世御殿様式
          の城ということで、本丸が山腹の居館部に置かれていますが、山上の曲輪がそれぞれ何と
          呼ばれていたのか結局今でも分かりません。また、なぜ縁起のよい「財」の字の入った財部
          から高鍋へ改称されたのかも不明です。
           高鍋城のもっとも良好な遺構は、おそらく舞鶴神社と資料館の間の岩坂御門跡の石垣だと
          思います。石垣の規模は決して大きくありませんが、その上に建っていた門は、かなり豪壮
          なものであったことが容易に想像できます。この石垣の上がたぶん二の丸だと思われます。
           二の丸の1段上に本丸があります。この本丸が、唯一呼称の確実な曲輪です。本丸の奥
          には、1段高くなったところに奥御殿跡と呼ばれる区画があり、現在は護国神社境内となって
          います。
           ここから上は山城部となり、おそらく曲輪配置は秋月氏以前からほとんど変わっていない
          ものと思われます。大きく4つの曲輪に分かれていますが、名称が不明なので上から勝手に
          「山頂曲輪」「櫓台曲輪」「梅園曲輪」「公園曲輪」と呼ばせていただきます。まず、山頂曲輪
          ですが、その名の通り城山山頂の詰曲輪に相当します。ですが、天守に相当する三階櫓は
          1段下の櫓台曲輪にあったとされており、高鍋城の謎の1つです。山頂曲輪自体は、扁平で
          何もない空間です。
           櫓台曲輪には、少なくとも三階櫓と太鼓櫓の2基があったとされ、その櫓台跡と思われる
          土塁の痕跡が散見されます。その下の梅園曲輪は、その名の通り現在は梅園となっている
          腰曲輪です。
           梅園曲輪の下には、現在児童公園となっている曲輪(公園曲輪)があります。梅園曲輪と
          公園曲輪の間には、山城部唯一と思われる石垣があります。この石垣は、山麓のものより
          高く立派に積まれていますが、なぜここだけ石垣が用いられているのかは不明です。
           このように、高鍋城は近世城郭にしては謎多き城といえますが、それもこれも町に城跡を
          観光活用しようという気がみられないところに原因があるように思います。秋月家といえば、
          たしかに江戸の大名としてはマイナーかもしれませんが、たとえばかの上杉鷹山は秋月家
          からの養子です(鷹山自身は高鍋に来たことはありませんが)。宣伝次第で、もう少し観光
          で稼げると思うのですが、今後に期待するばかりです。

           
 岩坂御門跡の石垣。
本丸長峰門跡。 
 本丸のようす。
本丸奥御殿跡を望む。 
 梅園曲輪と公園曲輪の間の石垣。
公園曲輪の土塁。 
 梅園曲輪のようす。
山頂曲輪のようす。 
 櫓台曲輪の三階櫓櫓台か。
太鼓櫓跡か。 
 城山からの眺望。
 奥に日向灘が見えます。
外堀跡の生活用水。 


BACK