滝川城(たきがわ)
 別称  : 五反田城、滝城
 分類  : 平山城
 築城者: 滝川氏
 遺構  : 曲輪、土塁、堀
 交通  : JR草津線油日駅から車で5分


       <沿革>
           織田四天王の一人、滝川一益を輩出した土豪・滝川氏の居城とされる。一益の子孫は
          紀長谷雄の後裔を自称したが、一般に滝川氏は甲賀二十一家の一つ・伴氏の一族で、
          大原氏庶流の櫟野氏から分かれたといわれる。『寛政重修諸家譜』によれば、河内国の
          高安庄司を務め高安氏を称していたが、貞勝の代に甲賀へ移り住み、子の一勝ないし
          資清が滝城へ分家して滝川氏を称したとされる。
           一益は一勝(資清)の子とされ、この城で生まれて16歳まで住したとも伝えられるが、
          その前半生は明らかでない。織田信秀を訪ねた山科言継の日記に、織田家家臣として
          滝川氏の名が見えることから、一益以前から滝川氏一族が織田氏に仕えていたとする
          説もある。
           永禄十一年(1568)に織田信長が近江の六角氏を駆逐して上洛すると、六角承禎は
          甲賀郡へ退いてゲリラ戦を展開した。元亀元年(1570)には、六角氏を支援する甲賀衆
          への攻撃が開始され、一益が大将を務めたといわれる。このとき、一益が大原同名中に
          宛てた書状が『大原勝井文書』に残されており、そこでは大原氏を名乗っている。同朋
          として大原一族の懐柔を図ったと推察されるが、『大原氏系図』に一益の名はみられず、
          『日本城郭大系』では大原氏が六角氏側に立ち続け、一益を同名中から排除したものと
          推測している。
           承禎はは天正二年(1574)ごろまで織田氏に抵抗を続けたが、行方をくらまし甲賀衆も
          信長の軍門に降った。このときまでは滝川城も存続していたと思われるが、詳しい動静
          は定かでない。


       <手記>
           織田氏の重臣・滝川一益ゆかりの城とされていますが、上述の通りその実情について
          はほとんど明らかになっていません。ひとつ隣には滝川西城、櫟野川を挟んだ北向かい
          には滝川支城が、そしてやや上流に大原氏が築いた櫟野大原城があります。
           城跡の入り口付近は樹木が伐採されていて、東麓の道路沿いからは説明板が見える
          ので迷うことはないでしょう。説明板の脇には2〜3段のごく小さな段築があり、『大系』に
          「二か所の小さな平坦地があり、ここに城門があったと推定され、左右対称の櫓をもつ」と
          あるのは、これを指すものと思われます。
           広大なほぼ単郭の城館で、南北辺には土塁が残るものの、東西辺には見られません。
          北辺土塁の中ほどには凹みがあり、山の神が祀られています。『大系』では物見台と推測
          していますが、当時からあったとすれば虎口跡とみるのが妥当でしょう。郭内は戦時中に
          開墾されていたそうで、南辺土塁の下部には小さな土塁で囲まれた溜池状の区画があり
          ますが、あるいは耕作に伴う造作とも思われます。
           西辺下には帯曲輪が巡り、南辺土塁の背後は堀切となっています。南辺土塁や空堀は
          それなりに規模が大きいものの、実戦的な構造の滝川西城に対して、縄張り上の工夫は
          とくに見られません。おそらく、住む城と戦う城を峻別していたものと思われます。
           麓の櫟野寺は、延暦寺根本中堂の用材を探していた最澄が、霊夢を感じて櫟(いちい)
          の生樹から十一面観音を彫り出したことに由来する古刹です。滝川一族の詳細や一益に
          至る経緯は定かでありませんが、古くから拓かれていたこの地に大原氏族としてそれなり
          の勢力を張っていたものと拝察されます。

 滝川城跡近望。
 画面中央に説明板が見えます。 
説明板。 
 説明板脇の段築。
 門跡か。
東辺の切岸。 
 東辺の入城口。虎口跡か。
北辺の土塁。 
 北辺土塁中ほどの凹部。
 虎口跡か。
南辺の土塁。 
 南辺土塁下の溜池状地形。
 戦時中の造作か。
西辺の帯曲輪。 
 南辺土塁の上。
南辺土塁上から郭内を俯瞰。 
 南辺背後の堀切。
おまけ:櫟野寺。 


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