新宮城(しんぐう) | |
別称 : 丹鶴城、沖見城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 浅野忠吉 | |
遺構 : 石垣、郭など | |
交通 : JR紀勢本線新宮駅徒歩10分 | |
<沿革> 城跡である丹鶴山には、平安時代後期に熊野別当家の別邸が営まれていた。この熊野別当の娘と 源為義との間にできた女子が丹鶴姫と呼ばれ、この地に住んでいたと伝わる。丹鶴山および新宮城の 雅称丹鶴城の名は、丹鶴姫にちなむものである。また、沖見城の名は字のごとく城山から海原を望む ことができることによる。 慶長六年(1600)、関ヶ原の合戦で新宮領主堀内氏善は西軍についたため改易され、浅野幸長が 紀州に封じられた。浅野氏の一族で家老の浅野忠吉が新宮領2万8千石を与えられ、忠吉は丹鶴山に 新城の築城を計画した。入封直後に築城が開始されたとする史料もあるが、確実な記録がないため、 着工時期についてははっきりしない。同十九年(1614)の北山一揆(農民一揆ではなく、地侍らの蜂起) に際して、一揆勢が「新宮城」を攻めんとした記録があることから、この時までには築かれていたものと 推測される。 元和四年(1618)、幕府より新宮城の「築城」の許可がおりた。北山一揆までに城が築かれていたと する説をとる場合、同元年(1615)の一国一城令により一旦廃城となったものと推測されている。他方、 このとき初めて丹鶴山に城が築かれたとするのが、一般的な通説である。同五年(1619)には、浅野家 は広島へ転封となり、新宮築城は紀州徳川家付家老水野重仲(重央)によって引き継がれた。工事が 完了したのは寛永十年(1633)、重仲の子重良のときであった。 水野家は3万5千石を領し、新宮城には3層5階の天守を戴く立派な大名格の家であったが、徳川家の 付家老という立場から大名とは認められなかった。新宮藩は、慶応四年(1868)に新政府に認められる まで正式な藩ではなかった。しかし、新宮城が藩府となったのもつかの間で、明治六年(1873)に城は 払い下げられ、取り壊された。 <手記> 新宮城は、熊野川に面した独立丘である丹鶴山にあります。山頂はU字型をしており、U字に三方を 囲まれた川べりには、船着き場を兼ねた水の手があります。かつては城跡に旅館があり、旅館へは麓 からケーブルカーが走っていたとされ、一部は遺構が改変されています。それを差し引いても、山頂部の 遺構は、新宮城の特徴であるほとんど直角の石垣を中心によく残っています。 U字型の山頂の右手に本丸があり、そのさらに先端には出丸が設けられています。本丸からは遠くに 太平洋がよく望めますが、樹木や天理教の巨大な建物があるため、かつて文人たちが感嘆したほどの 絶景とまでは残念ながらいきません。 本丸から、U字に沿って鐘の丸、松の丸と続きます。現在、城跡へは本丸南麓ないし松の丸南麓から 登山道が整備されていますが、当時の大手道は西麓にありました。しかし、大手口は宅地化・市街化が 進み、こちらから登ることはできません。城の南西麓に石垣で囲まれた幼稚園があります。ここは二の丸 だったところで、水野氏の居館があったところと思われます。浅野氏時代の絵図には鐘の丸と松の丸に 相当する位置に二の丸と描かれていることから、現在の二の丸は水野氏によって拡張された部分である と推測されます。 規模は決して大きくありませんが、堅牢な石塁に囲まれた威圧感のある城であったろうと思います。 |
|
南麓登山口から本丸を望む。 | |
鐘の丸の石垣と梅の花。 | |
本丸石垣近望。 | |
本丸桝形。 | |
本丸から出丸を望む。 | |
本丸下から水の手と熊野川を望む。 | |
本丸から鐘の丸と松の丸を望む。 | |
松の丸の桝形。 | |
本丸石垣と丹鶴山を突き抜ける紀勢本線の鉄橋を望む。 | |
二の丸石垣。 |