トゥーラント城
(Burg Thurant)
 別称  : なし
 分類  : 山城(Spornburg)
 築城者: ハインリヒ5世
 交通  :カッテネス駅よりバスまたはタクシーを利用
 地図 : (Google マップ


       <沿革>
           1197~1206年の間に、ライン宮中伯ハインリヒ5世によって築かれたと考えられている。神聖
          ローマ帝国の皇位を巡ってフィリップ・フォン・シュヴァーベンと争っていた、弟のオットー4世の
          要請によるものとみられている。トゥーラント城の名は、フェニキアの首都テュロスの砦(Thuron)
          にあやかったとされる。
           1216年、ケルン大司教エンゲルベルト1世は、モーゼル喉口部にあたるこの城と周辺の地域を
          武力で占拠した。占領は、1225年にエンゲルベルト1世が暗殺されるまで続いた。同年に、城は
          ライン宮中伯に返還された。城主家に任命されたベルレーヴィン家は、城名にちなんでツルン家
          (またはツォルノ家)を称した。
           1246年、トゥーラント城はトリーア大司教アルノルト2世とケルン大司教コンラート1世の共同軍
          によって包囲された。攻囲戦は2年に及ぶ激しいもので、「大乱(Große Fehde)」と呼ばれた。
          1248年に和議が結ばれ、ライン宮中伯は城と周辺の領地を両大司教に明け渡した。両大司教
          は城を折半し、城域の中間に仕切りの壁を築いた。
           その後、城主家はシェーネック家、ヴィニンゲン家、エルツ家、レック家と目まぐるしく替わり、
          1495年からはヴィルトベルク家が入った。城は、1542年の時点で廃墟となっていたとされる。
          ヴィルトベルク家は1616年から麓のアルケンの町にヴィルトベルク宮殿の建造をはじめたが、
          そのための石材がトゥーラント城から調達された。プファルツ継承戦争さなかの1689年、城は
          ルイ14世率いるフランス軍によってさらに破壊された。
           1911年、城跡は枢密顧問官ロベルト・アルマースによって買い取られ、1915年には一部が
          復興された。その後も、断続的に修復がなされた。1973年以降は、アルマース家とヴルフ家の
          共同所有となっている。


       <手記>
           南北に細長い峰の頂にある城で、山裾のブドウ畑が印象的です。城もずいぶん細長いなと
          思っていたら、ケルン大司教とトリーア大司教とで山分けにしていたという面白い歴史があると
          後で知りました。
           写真をよく見ると、似たような2つの城がくっついた構造をしているのが分かります。主塔も2基
          ありますが、左が「ケルンの塔」、右が「トリーアの塔」というのだそうです。
           今なお2つのファミリーが共同で管理しているというのも歴史の皮肉のようで面白く感じました。
          個人所有としては珍しく一般に公開されていて、6人以上向けのコテージのような宿泊施設も、
          城内に併設されているそうです。難点は、鉄道が対岸を走っているため、公共の交通機関では
          相当な遠回りをしなければ行けそうにないことです。

           


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