徳丹城(とくたん)
 別称  : なし
 分類  : 古代政庁
 築城者: 文室綿麻呂
 遺構  : 柵列跡、建物跡
 交通  : JR東北本線矢幅駅徒歩30分


       <沿革>
           徳丹城は、それまでの奥州支配の拠点であった志波城が弘仁二年(811)に河川の氾濫によって
          被害を受けたため、代替の政庁として築かれたものである。この移転は、当時の征夷将軍であった
          文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)の意によって進められた。徳丹築城は弘仁三年(812)に始まった
          とされているが、完成については翌四年(813)までのいずれかの時期とみられている。この間に、
          綿麻呂は征夷大将軍に就任した。
           築城には、志波城の建材が多く流用された。しかし、余儀なくされた移転であったためか規模は
          縮小され、約350m四方の広さで北側のみ土塀による築地とされ、他の三方は丸太を並べて立てた
          柵列であった。
           築城以降、軍事拠点としての徳丹城の利用価値は徐々に低下していき、弘仁六年(815)には、
          駐屯していた常備兵が廃止された。ただし、政庁として9世紀中頃までは使用されていたと考えられ
          ている。


       <手記>
           徳丹城は、志波城の南東10kmほど、東に北上川を控えた北上平野の沖積地にあります。志波城
          が水害を受けた教訓からか、北上川など大きな河川からはやや離れたところにあり、志波城はじめ
          胆沢城などそれまでの古代城柵に比べて要害性は著しく低いように思われます。
           現在、徳丹城跡は大部分が水田と徳田小学校の敷地となっています。とくに中央の政庁跡近辺は、
          柱穴に膝の丈ほどの木柱を据えて公園化していて、さらに小学校の校庭と柵も塀もなくつながって
          いるため、子供たちの格好の遊び場となっています。
           徳丹城は、これ以降いわゆる同様の古代城柵が建設されなかったことから「律令国家最後の城柵」
          と呼ばれています。すなわち、徳丹城は城郭史における古代と中世の境をなす城であるといえるので
          しょう。そう考えると、子供たちが走り回る芝生の公園に、ひとり歴史の移り香を感じずにはいられま
          せんでした。


           
 小学校脇の城址碑。
政庁跡周辺の様子。 
 案内板にある推定復元図。


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