上野城(うえの)
 別称  : 椿城
 分類  : 平山城
 築城者: 上野盛長
 遺構  : なし
 交通  : JR中央本線甲府駅からバス
       「JAこま野野之瀬支所」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           『甲斐国志』によれば、甲斐源氏小笠原氏初代小笠原長清の子長経の七男上野六郎盛長に
          よって築かれたとされる。上野氏は盛長の孫政長の代で絶え、跡を同族で政長の娘婿とされる
          秋山光定が継承したとされる。
           いつごろからかは不明だが、上野城は武田氏庶流大井氏の居城となったとされる。大井氏は
          南北朝時代初期に甲斐守護となった武田信武の子信明にはじまる。
           信明の6代子孫にあたる信達は自立志向が強く、駿河国の今川氏と結んで武田信虎と対立
          した。『妙法寺記』によれば、永正十二年(1515)十月十七日に信虎が信達の城を攻めたもの
          の大敗したとある。この城は上野城を指すとも考えられるが、『日本城郭大系』では『妙法寺記』
          に城の周囲は深田であると記されていることから、上野城の地形と合致しない点が指摘されて
          いる。
           同じく『妙法寺記』の永正十七年(1520)の項には、信虎が再度大井氏を攻めて、城を「降参」
          させた旨が記されている。この城が上野城を指すのか、また攻城戦があったのかなど詳しい点
          については明らかでない。ちなみに、信達の娘大井の方は信虎に嫁ぎ、信玄を産んでいる。
           大井氏は、信達の孫信舜の代まで確認できるが、その後については定かでない。傍流である
          信達の末子虎昌の系統が江戸時代まで続いているが、上野城の動向について詳細は不明で
          ある。


       <手記>
           上野城は、堰野川と坪川に挟まれた細い丘陵の中途に位置しています。現地ではほぼ別称
          の椿城で統一されているのですが、これは城の周囲に椿が多かったからとされています。ただ、
          今の上野周辺がそれほど椿の花豊かな土地とは見えませんし、『中世城館調査報告書集成』
          には「橘城」とあったり『甲斐国志』では「山茶城」となっていたりで、この雅称については一体
          どこから来たのかちょっと眉唾物です。
           本重寺の北に本丸跡といわれる五輪塔の集まった場所がありますが、遺構らしきものは認め
          られません。本重寺境内には立派な椿城址の石碑があり、裏手の駐車場脇には大井氏一族
          のものとされる墓があります。
           全体的にみて、崖端の鎌倉的な城館跡ではあるものの要害性については好適とは言い難い
          ように感じます。本当にここを戦国時代まで大井氏が居城としていたのかという点については、
          個人的には疑問を抱いています。


           
 本丸跡とされるところ。
本重寺境内の城址碑。 
 大井氏一族の墓。
北西から上野城址を望む。 
中央の緑の濃い林の右半あたり。 


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