防己尾城(つづらお)
 別称  : 吉岡城、亀山城
 分類  : 平山城
 築城者: 吉岡定勝
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : 鳥取駅からバスに乗り、「つづらを」下車


       <沿革>
           天正六年(1578)ごろ、山名家臣・吉岡将監定勝によって築かれたとされる。吉岡氏は高草郡
          吉岡荘を本貫とする土豪で、『太平記』にも名がみえるが、出自や詳しい系譜は明らかでない。
          吉岡氏の累代の居城は丸山城であったが、定勝が天正(1573〜92)の初め頃にまず蓑上城を
          築いて移り、次いで防己尾城を新たな拠点としたとされる。
           天正九年(1581)に織田家臣・羽柴秀吉が毛利家臣・吉川経家らの籠もる鳥取城を攻めると、
          定勝は毛利氏に与して羽柴勢の背後を脅かした。江戸時代の地誌『因幡民談記』によれば、
          同年七月に秀吉子飼いの部将である多賀文蔵・山本喜平次・吉川平助らが船団を漕ぎ着けて
          攻め上ったが、城方の激しい反撃により混乱に陥り、文蔵は討ち死にして大敗を喫した。乱戦の
          なかで、弟・右近は秀吉の千成瓢箪の馬印を奪ったとされる。ただし、この戦いについて同時代
          史料における裏付けはない。
           思わぬ敗報に激怒した秀吉は、亀井茲矩に命じて再度陸上から攻城させたが、一向に落ちる
          気配を見せなかった。そこで茲矩は兵糧攻めに切り替え、補給を断たれた定勝はついに降伏を
          余儀なくされた。定勝は毛利氏に身を寄せたとされ、同年中に鳥取城が落城すると、防己尾城も
          そのまま廃城となったとみられる。


       <手記>
           防己尾城は湖山池西岸に突き出た岬の城です。当時は湖水がもっと入り込んでいたでしょう
          から、峰続き以外をぐるりと水に囲まれた要害の城であったと思われます。
           城跡一帯は公園化されていて、二又に分かれた城山の谷筋に駐車場があります。この谷には
          船着き場および城下集落が設けられていたとみられているようです。『因伯古城跡図志』の絵図
          によれば南東側の支峰が三の丸、主峰頂部が本丸で、本丸から峰続き南西のピークが二の丸
          とされています。
           駐車場から主峰へ上がる登山路の脇には、早くも多くの帯曲輪が覗いています。こうした曲輪
          が多数取り巻く構造ではありますが、二の丸の付け根側には畝状竪堀やV字型の竪堀も見られ
          ました。いずれも立派な造作で、これを見つけたときには思わず声を上げんばかりでした。
           他方で、この箇所以外には目立った堀遺構は見受けられません。やはり湖水を天然の水濠と
          みれば、空堀などの防備は峰続き側だけで十分と判断されたのでしょう。本丸の眺望は開けて
          いませんが、主峰先端の曲輪跡からは、湖越しの正面に鳥取城跡を望むことができます。

 湖山池東岸から防己尾城跡を望む。
谷筋のようす。 
船着場や城下集落があったとみられています。 
 主峰南側斜面の帯曲輪群。
本丸下の腰曲輪。 
 本丸と城址碑。
二の丸のようす。 
 二の丸の土塁。
二の丸下段曲輪の土塁。 
 同曲輪から北西に延びる竪土塁。
同曲輪下のV字型の竪堀。 
 V字型の竪堀を下から。
畝状竪堀。 
 主峰先端曲輪の下段。
主峰先端の曲輪。 
 画面中央奥に久松山(鳥取城跡)を望む。
主峰先端曲輪から三の丸を望む。 
 三の丸のようす。
三の丸北東下の腰曲輪群。 
 三の丸北東下の堀切状地形。 
三の丸北東先端部のようす。 


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