上野原城(うえのはら)
 別称  : 内城館、古郡氏館
 分類  : 平城
 築城者: 古郡氏
 遺構  : なし
 交通  : JR中央本線上野原駅徒歩15分


       <沿革>
           平安時代末期、武蔵七党の1つ横山党の庶流古郡氏によって築かれたとされる。古郡氏は、
          横山時重の弟別当忠重が都留郡古郡郷(現在の上野原台地一帯)に入植したことにはじまる
          とされる。
           建暦三年(1213)の和田合戦に際し、忠重の孫の経忠・保忠兄弟は、他の横山一族とともに
          和田義盛方に属し、敗れて都留郡波加利荘の東競石郷二木で自害した。戦後、古郡氏旧領
          のうち、古郡郷が加藤兵衛尉に与えられた。兵衛尉については、諱を景長として、美濃遠山氏
          の祖となった加藤景廉の子ないし孫であるともいわれるが確証はない。また、『吾妻鏡』には
          景廉の兄光員の子として「加藤兵衛尉光資」の名がみられ、こちらである可能性も考えられる。
           こののち、関東や甲斐の争乱に際してしばしば加藤氏の名はみられるものの、詳しい動向
          については定かでない。上野原城主として明確に現れるのは、武田信虎・晴信父子の2代に
          仕えた加藤駿河守虎景(信邦/昌頼)である。『甲陽軍鑑』によれば、虎景は若き日の晴信に
          兵法を指南し、山本勘助と並ぶ軍師的存在であったとされる。ただし、『甲陽軍鑑』の史料的
          価値については、一般的に留保が必要とみられている。同書によれば、このころの加藤氏は
          郡内小山田氏の指揮下にあったとされている。
           虎景の後、上野原加藤氏は虎景の子景忠、その子信景と続いた。ただし、武田信虎の弟
          勝沼信友の次男に加藤信厚の名がみえ、また信友の嫡男信元の子に信景があることから、
          加藤信景を勝沼氏からの養子とする説もある。他方で、景忠の弟弥五郎昌久は初鹿野忠次
          の跡を継ぎ、初鹿野伝右衛門昌次として活躍した。
           天正十年(1582)、武田氏が織田信長によって滅ぼされると、信景は一族を率いて武蔵国
          へ逃れたものの、箱根ヶ崎(瑞穂町)で襲われて全滅したとされる。加藤氏の滅亡によって
          上野原城も廃城となったものと思われるが、詳細は不明である。


       <手記>
           現在、上野原城址の中心付近を中央高速道路が貫通しており、遺構は消滅しています。
          稲荷神社の鎮座するあたりが城の西端にあたるとされ、境内に説明板が設置されています。
          この説明板や『日本城郭大系』などでは「内城館」と呼びならわしていますが、内城とは城内
          を意味する小字であり、付近の高速道路を横断する橋は「外城橋」と名付けられています。
          したがって、正式な呼称としては上野原城を用いるのが妥当であると思います。
           上野原城について、『上野原町誌』には「あたかも三角形の島のごとき城塞」と表現されて
          おり、現地説明板でもこれを踏襲して「島のような土地」としています。ですが、上の地図を
          見ていただいても分かるとおり、城地の北辺から東へまわって鶴川へ落ち込んで合流する
          小川があり、上野原台地の崖端にあってなおかつ舌状台地の様相も呈しています。つまり、
          舌状台地の根元を堀で切断して城としているのであって、「島と為す」というほど特殊で大胆
          な造成をしているわけではないものと思われます。

           
 熊野神社。
比定地付近から望む鎌沢の谷。 


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