打吹城(うつぶき)
 別称  : 打吹山城
 分類  : 山城
 築城者: 山名師義
 遺構  : 石垣、曲輪
 交通  : JR山陰本線倉吉駅からバスに乗り、
      「新町」下車徒歩15分


       <沿革>
           伯耆守護・山名師義が14世紀後半に築き、田内城から移ったとされる。その後は師義の子・
          氏之の系統が伯耆守護を継承し、打吹城は伯耆山名氏の守護所であったとみられる。氏之の
          曽孫にあたる元之は、甥の政之と守護職を争い、伯耆山名氏の勢力を著しく減衰させた。
           『伯耆民談記』によれば、大永四年(1525)五月に尼子経久が伯耆へ大規模に侵攻し、瞬く
          間に国内を平定したとされる(大永の五月崩れ)。しかし近年の研究により、尼子氏の伯耆進出
          は段階的に進行したと考えられており、天文二年(1533)までは形だけの伯耆守護として山名
          澄之が生存していた。澄之の跡は子の豊興が継いだとされるが、同二十一年(1552)には経久
          の孫・晴久が伯耆守護に任じられており、この間に伯耆山名氏は没落したとみられる。
           尼子氏統治下における打吹城の扱いは明らかでない。永禄五年(1562)、毛利元就による
          月山富田城攻めを機に、南条宗勝が毛利氏の支援を受けて羽衣石城を奪還すると、打吹城も
          宗勝の手に帰したとみられている。天正八年(1580)に織田家臣・羽柴秀吉が鳥取城を攻める
          と宗勝の子・元続は織田氏に通じたため、毛利家臣・吉川元春が打吹城を奪って南条氏と対峙
          したとされる。
           天正十二年(1584)ごろの京芸和睦により、八橋を除く東伯耆3郡6万石が元続に与えられる
          と、元続の弟・小鴨元清や一族の南条備前守、重臣・山田越中守が城代に置かれた。このうち
          元清は、元続の子・元忠の後見人となったものの両者の間で確執を生じ、越中守の仲介により
          小西行長の幕下に転じている。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、元忠は西軍に属して改易され、伯耆一国は中村一忠に
          与えられた。打吹城には城番が置かれたが、同十四年(1609)に一忠が急死すると米子藩は
          改易となり、打吹城も廃城とされた。


       <手記>
           打吹山は白壁土蔵群で知られる倉吉の市街地の南側に悠然と横たわっており、街のシンボル
          として親しまれているようです。およそ全山が自然豊かな打吹山公園となっていて、多くの市民
          が散策に訪れていました。北西中腹の本丸への登山口には櫓風の展望台が設けられています
          が、周囲の木々がたわわに伸びすぎていて、眺望は開けていません。
           城山一帯には堀跡にしては不自然な溝地形が散見されるものの、どうやらこれは太平洋戦争
          末期に、本土決戦に備えて横穴を掘らせた勤労奉仕「チ号演習」による造作だそうです。また、
          登山道の開削によっても地形が随所で改変されており、とくに山頂周辺ではどこまでが遺構か
          分かりにくい状況になってしまっています。
           山頂の本丸には天守台が設けられ、周囲には石垣も残っています。ですが、本丸を除いては
          ほとんど中世然とした山城の構造で、尾根筋に多くの腰曲輪を配置しています。南条氏時代の
          3城代にちなんだ小鴨丸・備前丸・越中丸といった曲輪もありますが、いずれも普通の腰曲輪や
          小ピークの曲輪で、普段からこれらに住していたとは考えられません(小鴨丸は藪に埋もれて
          いるようで行けませんでした)。天守台など本丸が南条氏と中村氏のどちらによって整備された
          のかは分かりませんが、少なくとも中村氏のころには、山城部はほとんど顧みられていなかった
          のではないかと思われます。

 倉吉の白壁土蔵と打吹山。
登山口の櫓風展望台。 
 備前丸のようす。
備前丸の説明板。 
 本丸のようす。
同上。 
 本丸天守台。
城址碑。 
 天守台からの眺望。
 右手中央に張り出した丘が田内城跡。
本丸周囲の石垣。 
 同上。
「チ号演習」によると見られる溝。 
 土塁か。
越中丸のようす。 


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