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若桜鬼ヶ城(わかさおにが) |
別称 : 若桜城、鬼ヶ城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 矢部暉種か | |
遺構 : 石垣、堀、曲輪、虎口 | |
交通 : 若桜鉄道若桜駅駅徒歩20分 | |
<沿革> 矢部暉種によって、正治二年(1200)以降に築かれたとみられている。昭和十六年(1941)に 発見された『矢部氏系譜』によると、暉種は入江氏の庶流で駿河国有度郡矢部村を本貫とし、 正治二年正月の梶原景時の変で同じ入江一族の吉川氏らと共に景時一行を討ち取り、その功 により因幡国八東郡東山田庄近辺の20か村を与えられたとされる。山田とは現在の若桜一帯 を指し、弘安三年(1280)には「因州八東郡若桜郷」の地名がみられる。 文明十一年(1479)、同じ八東郡の私部城主毛利次郎貞元が山名氏に対して反乱を起こす と(毛利次郎の乱)、矢部定利は毛利氏に同調した。翌年には山名政豊に鎮圧されたものの、 貞元や定利はお咎めなしとされた。しかし長享元年(1487)に正式に赦免されると、貞元・定利 らは山名政実を擁立して再び反乱に及んだ。政実は幕府から因幡の新守護に任じられたが、 前守護の山名豊時が戦いを優位に進め、十一月に貞元が私部城で自刃すると、ついで定利も 若桜の居館で政実と共に自害した。 矢部氏自体は存続したとみられているが、天正三年(1575)に私部城を拠点としていた尼子 再興軍の山中鹿介幸盛が謀略を以て城主矢部吉茂を生け捕りにし、尼子勝久らと共に若桜へ 移った。しかし、まもなく吉川元春と小早川隆景率いる4万5千の大軍が因幡へ進攻し、鬼ヶ城 を包囲された再興軍は翌年五月ごろに城を棄てて撤退した。 毛利氏は城代に草刈景継や青木氏を入れたとされるが、詳しい扱いは定かでない。、天正 九年(1581)に織田家重臣・羽柴秀吉が因幡を制圧すると、その家臣・木下重堅に若桜2万石 が与えられた。重堅によって、若桜城は大きく改修されたとされる。 重堅は慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍に属し、大津城の戦いなどに参加した。本戦 で東軍が勝利すると、大坂・天王寺に匿われて沙汰を待っていたが、この間に鹿野城主亀井 茲矩が若桜城に迫り、重堅は切腹したと虚言を用い開城させた。その後、重堅は本当に切腹 させられている。 戦後、摂津三田城主山崎家盛が3万石で若桜へ加増・転封された。山崎氏によって、鬼ヶ城 は今日の姿に完成されたとみられる。元和三年(1617)、池田光政が要衝を理由に姫路から 鳥取32万5千石へ減転封となると、家盛の子・家治は備中成羽3万5千石へ転出した。これに より、若桜鬼ヶ城は廃城となったとされる。 <手記> 若桜市街の背後に聳える比高約220mの山が若桜鬼ヶ城跡です。いかにも急峻な山城です が、背後からすぐ裏手まで林道が延びており、車さえあれば訪城は意外にも簡単のようです。 しかしながら私が訪れた三月の中旬には、林道に入ってすぐのところから道路が雪に埋もれて しまっており、とても徒歩でも進める感じではありませんでした。いったん引き返し、致し方なく 麓から歩いて登ろうとしましたが、こちらの登山道も早々に雪道となっていて、装備もないので 完全に断念と相成りました。ですので、いずれ時期を改めてリベンジです。 若桜では、ローカル線の若桜鉄道に乗ったり、国の有形文化財に登録されている若桜駅の 転車台を見学したりしました。若桜街道の宿場町でもある若桜の街も、重要伝統的建造物群 保存地区に指定されており、趣があります。そのなかの太田酒造の「辨天娘」は、熱燗が旨い 酒飲み向けの銘柄でオススメですよ! |
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若桜駅転車台と若桜鬼ヶ城跡。 | |
若桜鉄道。 |