山高氏館(やまたかし)
 別称  : 実相寺塁
 分類  : 平城
 築城者: 山高信方か
 遺構  : 土塁、堀跡
 交通  : JR中央本線韮崎駅よりバス。
       「牧の原」バス停下車徒歩30分


       <沿革>
           武田氏庶流武川衆一族山高氏の居館とされる。山高氏は、鎌倉時代中期の甲斐守護一条
          時信の子義行の子信方にはじまる。
           山高氏十代石見守親之は武田信虎・晴信(信玄)父子に仕え、「武川十二騎」の随一に数え
          られた。永禄四年(1561)の川中島の戦いでは、討ち死にした晴信の弟信繁の首級を敵から
          奪い返したといわれている。館跡に建つ実相寺の寺伝によれば、川中島戦後に蔦木越前守が
          山高村内の大津にあった実相院を山高五郎左衛門の宅址に移したものとされる。これが正し
          ければ、山高氏館は親之やその父越後守信之以前に廃されていたことになる。ただし、山高
          五郎左衛門なる人物については山高氏の系図にはみられず、一族分家である可能性も指摘
          できる。実相寺の西500mほどのところには、もう1つ山高氏館跡と伝わる城館跡がある。
           ちなみに、親之の孫宮内信直は天正十年(1582)の天正壬午の乱に際して徳川家康に従い、
          江戸時代には山高氏は旗本として続いた。


       <手記>
           大武川の河岸段丘上にある実相寺が山高氏館跡です。この寺は何といっても日本三大桜の
          1つ神代桜があることで有名。私の場合はむしろ城跡めぐりのついでに花見をするつもりで訪れ
          たのですが、朝イチにもかかわらずすでに結構な数のカメラ小僧が来ていました。
           人が集まる前にといそいそと桜見物を済ませ、あとは遺構探しです(笑)。神代桜から東側に
          伸びる桜並木の土壇は、おそらく館の南辺の土塁跡でしょう。その南側の歩道は凹状になって
          おり、これまたおそらく堀跡と思われます。
           うって変わって人っ子一人来ない本堂裏手に回ると、こちらにもよりはっきりした土塁が残って
          います。1ヶ所石積みも見受けられましたが、館というよりは寺の遺構でしょう。『日本城郭大系』
          によれば、寺域西端の今は整地されている段差の所にも土塁があったとされ、少なくとも西辺
          については二重の土塁をもっていたことになります。
           ちなみに、神代桜は樹齢2000年以上ともいわれる古木中の古木ですが、樹勢はだいぶ衰え
          ていてほとんど枯死寸前のようにすら感じられました。

           
 本堂裏手の土塁。
土塁隅。 
 土塁の石積み。寺の遺構か。
南辺の土塁。 
 西辺のようす。
 左手奥の段差付近にも土塁があったとされています。
南辺の歩道。堀跡か。 
 神代桜。
境内のようす。 


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