屋嶋城(やしま)
 別称  : 屋島城
 分類  : 山城
 築城者: 天智天皇(中大兄皇子)
 遺構  : 石塁、土塁、門跡
 交通  : JR高徳線屋島駅または琴電屋島駅よりバス
      「屋島山上」バス停下車


       <沿革>
           『日本書紀』天智天皇六年(667)の項に、大和国の高安城、対馬国の金田城と並んで、
          讃岐国山田郡に屋嶋城を築いたことが記されている。4年前の同二年(663)には、白村江
          の戦いで日本(倭)・百済残党連合軍が新羅・唐連合軍に大敗した。これにより、唐が日本
          列島へ攻め入ってくるおそれが高まっており、本土防衛のために百済から亡命した技術者
          の指導の下、多くのいわゆる朝鮮式山城(古代山城)が建造された。屋嶋城もそのうちの
          1つであり、瀬戸内海の航行ルートの掌握を目的としていたと考えられている。
           その後、危惧されていた唐や新羅の侵攻はなく、屋嶋城は実戦を経験することなく廃され
          たものと推測される。その廃城時期は記述がないため定かでないが、高安城が廃された
          大宝元年(701)以前のことと思われる。
 

       <手記>
           屋島はもともとはその名のとおり独立した島でした。現在のようなほとんど陸続きの状態
          になったのは、江戸時代に新田や塩田の開発が進んでからです。急峻でテーブル状の
          独特の山容をした屋島は、北嶺と南嶺の2つに分けられ、南嶺には四国八十八箇所の1つ
          屋島寺があります。
           『日本書紀』にはっきり記述があるものの、長らく遺構が見つかっていなかったことから、
          屋嶋城は謎の古代山城とされてきました。1980年には浦生地区から登る谷筋のルートに
          石塁や土塁、水門跡、見張り台などが見つかったものの、山上の城跡はなお不詳でした。
          ところが1998年1月、個人で調査をしていた平岡岩夫氏により、上の地図の緑丸の地点に
          城門跡の石塁が発見されました。これをもとに2007年に復元事業が始まり、現在屋島の
          山上で唯一のはっきりした遺構となっています。浦生の石塁が北西の谷戸を押さえている
          のに対し、こちらの城門は南嶺にもう1つある南側の谷戸からの侵入に備えていると考え
          られています。
           ここに限らず古代山城を訪ねるといつも思うのですが、千年後の近世城郭にも劣らない
          これだけの規模の石塁を、労働力も技術も限られていた古代にどうやって積み上げたの
          だろうと感心します。城門は谷戸に面しているとはいえ急斜面の中途にあり、下から見る
          とかなりの圧迫感があります。
           屋島寺境内には、源平合戦の屋島の戦いにまつわる血の池などはあるものの、屋嶋城
          に関連すると思われるものは見当たりません。眺望絶佳の獅子ノ霊巖に、説明板が設置
          されているのみです。より峻険な北嶺も城域と思われますが、こちらも遺構は見つかって
          いないようです。
           東麓の庵治半島との間の入り江が屋島の古戦場ということですが、このときに屋嶋城が
          使用された形跡はなく、すでに埋もれていたものと推測されます。

 復元された城門跡石塁。
同上。 
 同上。
獅子ノ霊巖と屋島城跡の立て看板。 
 獅子ノ霊巖から高松方面を望む。
北嶺を望む。 
 屋島の戦いの古戦場を俯瞰。


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