吉野ヶ里遺跡(よしのがり)
 別称  : なし
 分類  : 環濠集落
 築城者: 不明
 遺構  : 堀、土塁、墳墓、住居跡
 交通  : JR長崎本線吉野ヶ里公園駅徒歩20分


       <沿革>
           吉野ヶ里に集落が営まれはじめたのは縄文時代とみられているが、防御施設を伴った環濠集落と
          なったのは、弥生時代に入ってからのこととされる。弥生時代前期には、丘陵上に散在した集落の
          1つに環濠が設けられ、中期にはこれらの集落が一体化し、丘陵を囲むより大きな環濠が作られた。
          3世紀には、日本国内に数多く存在した「国(クニ)」のなかでも最大規模のものの1つに発展したと
          考えられており、吉野ヶ里は「北内郭」「南内郭」と呼ばれる2つのエリアを中心とし、2重3重の環濠
          をめぐらした巨大集落となっていた。
           周辺の諸集落のなかでも吉野ヶ里が突出して発展した理由として、当時の海岸線が吉野ヶ里に
          ずっと近く、河川を通じて海浜へのアクセスが容易だったことや、有明海越しに雲仙岳を望むことが
          できたとみられていることから、祭祀的な中心地となり得たことなどが挙げられている。
           古墳時代に入ると、吉野ヶ里は急速に廃れ、人々は離散したと考えられている。背景には、稲作
          の普及や大和政権の勢力拡大による平和の訪れにより、山上に集落を構えるメリットがなくなった
          ことがあると推測されている。環濠の堀からは大量の土器が発掘されているが、これは移転の際に
          捨てられたものと考えられている。その後、吉野ヶ里の丘には古墳が築かれるようになった。

          
       <手記>
           吉野ヶ里遺跡といえば、小学生でもその名を知っている(ゆとり世代は分かりませんが…)超有名
          遺跡ですが、どのようなところにあるのかは行ってみるまで知りませんでした。南北に細長い丘陵の
          南端付近に位置し、東麓には筑後川を通じて有明海へと通じる田手川が流れています。奇しくも、
          眼前には長崎街道が走っており、中世城館があってもおかしくはない立地といえます。
           吉野ヶ里遺跡は日本100名城に選ばれているのですが、私はこれに大疑問です。たしかに、防御
          施設をもった重要な古代遺跡ではありますが、「名城」であるかどうかと問われればその答えは自ず
          とNOでしょう。当遺跡を本HPで扱うべきかどうかについても逡巡しましたが、防衛設備をもった環濠
          集落であることと、昨今の日本城郭史ではおおむね吉野ヶ里をはじめ弥生時代の環濠を日本城郭
          のはじまりとみる向きが大勢であることから、ここでも取り上げることにしました。
           話が逸れましたが、吉野ヶ里には前述のとおり「北内郭」と「南内郭」と呼ばれる2つの別個に堀で
          囲まれた中心的なエリアがあり、その外側に丘陵全体を囲う堀が巡っています。古代遺跡に対して
          縄張りなどというのも不自然ですが、北内郭では入口が喰い違い虎口状になっていたようで、興味
          深かったです。だからといって、古代遺跡と中世城郭との間にそれほど継続性があるようには考え
          にくいですが。現地の説明によれば、「北内郭」が祭祀をつかさどる政務エリアで、「南内郭」が国王
          など地位の高い人々の居住エリアだったと考えられているようです。
           北内郭の北は、祭祀のさらに奥、すなわち奥津城エリアとなっていたようで、墓や墳丘が広がって
          いたそうです。ここで発掘された遺骸のなかには、人為的に致命傷を負ったものが少なからずあった
          そうで、吉野ヶ里周辺で大規模な戦闘があったことを物語っています。ただし、吉野ヶ里での攻防戦
          があったかどうかは不明です。
           吉野ヶ里遺跡を「城」としてみた場合、その規模は中世と比べてもかなり壮大といえます。最盛期
          は3世紀ごろといわれていますが、これは中国でいえばちょうど三国志の頃ということになり、その
          時代にこれだけのジャパン・オリジナルな都城が発達していたというのは、素直に驚きます。
           ひとつだけ、どうしても解せない謎があったのですが、それは堀の位置です。吉野ヶ里遺跡の堀は
          すべて防御柵の内側に設けられています。中近世城郭を見慣れているという私の先入観を抜きに
          しても、堀は柵の内側より外側に設けた方が効果的だというのは、普通に考えつくように思います。
          これでは、柵の内側で守る兵が自由に動けません。加えていえば、敵の進行を妨げる逆茂木も、堀
          のさらに内側に配置されており、日本城郭のセオリーからいえば、配備する順序がまるで逆です。
          これがどのような防御思想に則って築かれたものなのか、現地ではまったく説明がありませんでした。
          直感ですが、城郭史の研究家は考古学のセンセイ達に阻まれて吉野ヶ里の研究にタッチできないで
          いるのではないでしょうか。史学系研究者の下らないナワバリ意識の強さは、私もよく知っているもの
          ですから。
           さて、吉野ヶ里遺跡は現在「吉野ヶ里歴史公園」として、有料のテーマパークとなっています。公園
          内の整備や復元状況はなかなかよくできているのですが、お上と学者がタッグを組んで作ったパーク
          ということで、とにかくつまらない公園です。歴史好きがつまらないと感じるのですから、一般の方々
          にはなおのことでしょう。詳しくはこちらのブログで記事にしていますので、そちらをご参照ください。

           
 現代の民家越しに吉野ヶ里の復元建物を望む。
堀と復元木柵、復元逆茂木。 
一般的な城郭と順序が逆で、右手が城内側。 
 南内郭俯瞰。
南内郭虎口のようす。 
 南内郭の堀。
南内郭の井楼から南方を望む。 
 南内郭井楼から北内郭を望む。
北内郭一の門。 
 一の門から喰い違い状に二の門を望む。
北内郭主祭殿。 
本当にこんなに立派だったんだろうか…。 
 北内郭北側の墓地エリア
両内郭外側の倉庫群を望む。 


BACK