滬尾砲台(こび) | |
別称 : 新砲台 | |
分類 : 砲台 | |
築城者: 劉銘伝 | |
交通 : 地下鉄淡水駅からバスに乗り、 「滬尾砲台」下車 |
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地図 :(Google マップ) | |
<沿革> 1884年に清仏戦争が勃発し、同年8月にフランス艦隊が基隆を攻撃すると(第一次基隆の戦い)、 台湾の清軍指揮官・劉銘伝や提督の孫開華、台湾道道員・劉璈は、淡水防衛のため淡水河口に 機雷線やバリケードを構築し、滬尾の丘上に砲台を建造させた。同年9月にフランス軍が淡水沖に 現れたとき、まだ砲台は完成していなかったが、仏側からは新砲台(フォート・ヌフ)と呼ばれた。 淡水の戦いは10月2日の砲撃戦で始まったが、河口が封鎖されているため、フランス軍は淡水を 制圧するには上陸戦が必要と判断し基隆からの援軍を要請した。同8日、艦隊の砲撃で滬尾砲台 と白砲台の大砲が無力化されると、約600名のフランス兵が艦砲の援護を受けて易々と上陸した。 しかし、フランス軍5個中隊はまもなくジャングルと霧の中の行軍を余儀なくされ、両砲台に沿って 展開していた孫開華軍との接近戦に突入した。敵味方の位置も分からないままフランス兵は弾丸 が尽き、2時間ほどの戦闘の後に撤退した。淡水の街に住む西洋人は、フランスによる早期占領を 予想して高みの見物を決め込んでいたため、清軍の勝利は衝撃を以て迎えられたという。 清仏戦争終結後、台湾は省として独立し、劉銘伝が初代巡撫となった。劉は台湾防衛の観点から 滬尾砲台を含む10か所の要塞を整備し、滬尾砲台は1888年に完成した。 1895年の日清戦争に際し、東郷平八郎率いる日本艦隊が6月9日に淡水へ進軍し、滬尾砲台に 砲撃を加えた。しかし、守備兵は既に逃亡しており、日本軍は反撃を受けることなく淡水を占領した。 戦後に台湾を領有した日本は滬尾砲台を重視せず、砲兵訓練場などとして利用した。以後、実戦を 経験することなく今日に至っている。 <手記> 滬尾砲台は日本の明治時代に建造された近代要塞です。南東の紅毛城ほどではありませんが、 観光スポットとして開放されており、城跡好きであれば併せて訪れる価値はあるでしょう。 長方形の要塞は海側を向いた北西と南西の2辺に4か所の砲座が設けられていますが、市街側の 北東・南東2辺には1座もありません。上陸した敵兵に回り込まれる可能性のある北東辺にのみ胸壁 が作られているなど、資材・費用の合理化が図られているのも特徴です。また要塞の外周には空堀 が巡り、その外側の自然地形は要塞とほぼ同じ高さとなっています。海上からは、要塞がどこにある のか正確に視認することはできなかったでしょう。 |
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砲台郭内のようす。 | |
被覆下の砲路。 | |
北東隅の砲座。 | |
北辺砲座の大砲レプリカ。 | |
被覆上から郭内を俯瞰。 | |
銃座。 | |
南西辺の空堀。 | |
北西隅のようす。 | |
南西辺の空堀。 |