大豆生田砦(まみょうだ)
 別称  : 島崎城
 分類  : 平城
 築城者: 不詳
 遺構  : なし
 交通  : JR中央本線韮崎駅よりバス
       「大豆生田下」バス停下車


       <沿革>
           『甲斐国志』によれば、大豆生田村は釜無川を下った甲府盆地内にあったが、氾濫により逸見筋の
          現在の場所に移ったとされる。このとき、藤巻氏と呼ばれる一族が大豆生田に移住したと『国志』は
          推測しているが、藤巻氏の出自や大豆生田に城館が営まれていたのかなどは明らかでない。
           天正十年(1582)の天正壬午の乱において、藤巻氏は北条氏に属し、北条軍は大豆生田に砦を
          築いた。『国志』では、大豆生田砦について「疆城広ク砦ノ中ニ民舎アリ」としており、集落を砦内に
          囲いこんだ比較的規模の大きな砦であったと考えられる。
           『家忠日記』によれば、同年八月二十九日、大豆生田付近に刈田に出た徳川軍と、砦の兵との間
          で合戦となった。そして翌三十日、徳川軍は大豆生田砦を攻撃し、これを攻め落とした。同月十二日
          の黒駒合戦でも敗北していた北条軍は、大豆生田砦の戦いによって、さらに守勢を強いられることと
          なった。同年十月に徳川・北条間で和議が成立すると、大豆生田砦も役目を終えて廃城となったもの
          と思われる。


       <手記>
           大豆生田砦は、須玉川と塩川の合流地点にあったとされています。かつては堀などがみられたそう
          ですが、現在は中央自動車道が城地を貫通しており、遺構は残っていません。県道604号線が須玉
          川を渡る桐ノ木大橋の北詰に、題目大宝塔とヒイラギの古木があり、その説明版の裏に隠れて朽ち
          かけた標柱が立てかけられています。
           遺構はありませんが、川に面した部分は切り立った崖となっていることから、地続きの部分に堀を
          穿つだけで、臨時の砦として十分役に立ったであろうことは、地形から推測できます。集落を包摂して
          作られたということからも、旧領主藤巻氏の居館があったとすれば、同様に砦内に取り込まれたか、
          そもそも砦とは別の場所にあったものと思われます。

           
 大豆生田砦址標柱。
砦跡先端付近(題目大宝塔)のようす。 
右手奥にあるのが県天然記念物のヒイラギ。 
 砦跡付近から富士山方向を望む。


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