足立氏館(あだちし) | |
別称 : 小島氏館、足立遠元館 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 足立遠元か | |
遺構 : なし | |
交通 : JR等大宮駅よりバス 「観音寺前」バス停下車徒歩5分 |
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<沿革> 植田谷には、足立遠元の館があったと伝えられる。足立氏は、藤原流とも足立郡司武蔵宿禰武成 の子孫ともいわれるが、詳しい出自は不明である。遠元の父遠兼から足立氏を称したとされる。遠元 は、源義朝や頼朝に従って活躍し、頼朝死後には十三人の合議制に参加した。 遠元の嫡孫遠政は、丹波国佐治庄の地頭に任じられ、移住した。その後の足立郡足立氏について は詳らかでない。江戸時代の植田谷領三ヶ村の名主小島勘太夫家は、足立氏後裔を称していた。 <手記> 足立氏館の正確な所在地はいまだ明らかでなく、候補地は大きく2ヶ所あります。1つは名主小島家 の居宅のある林光寺西側一帯(地図の緑丸)、もう1つは藤橋六部堂の西側一帯(地図の右下の橋の 西詰付近)です。 前者は、大宮市の天然記念物のクスノキが目印です。その根元には、クスノキと小島勘太夫家文書 の標柱があります。小島勘太夫家文書は、小島家に伝わるおよそ300点に及ぶ古記録で、市の有形 文化財に指定されています。 後者は、藤橋の西詰にある六部堂の西側一帯とされています。六部堂は、江戸時代後期にこの地 に石造りの藤橋を架けた小平次という行者の徳をたたえて建てられてものです。それまでは藤の蔓を 編んだだけのつり橋だったそうです。領主の館前の橋が藤蔓のつり橋とは、少々考えにくい気もする のですが。 いずれにせよ、どちらの比定地とも遺構などはなく、案内などもありません。 |
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小島氏の屋敷前のクスノキ。 | |
クスノキと小島勘太夫家文書の標柱。 | |
比定地その2。 藤橋東詰から六部堂西側を望む。 |
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六部堂。 |