愛甲氏館(あいこうし)
 別称  : 愛甲三郎館、愛甲季隆館
 分類  : 平城
 築城者: 愛甲氏
 遺構  : 空堀、土塁
 交通  : 小田急線愛甲石田駅徒歩10分


       <沿革>
           鎌倉時代の豪族愛甲氏の館、とりわけ愛甲三郎季隆の館と伝わる。愛甲氏は横山党の
          庶流で、横山(山口)隆兼が愛甲内記平大夫を殺害し、後に愛甲荘を奪った子孫が称した
          ものとされる。
           季隆は源頼朝に仕え、幕府御家人きっての弓の名手と謳われた。元久二年(1205)の
          畠山重忠の乱では、二俣川の戦いで重忠を射殺し、その首級を挙げた。しかし、建暦三年
          (1213)の和田合戦で他の横山党一族とともに和田義盛方に属して敗れ、季隆と兄義久
          ならびに一族の多くが討ち死にした。
           愛甲氏の末裔は室町時代初期ごろまで存続していたとされるが、詳細は不明である。


       <手記>
           愛甲氏館は、玉川旧河道沿いの崖端に築かれた典型的な鎌倉武士の館です。古絵図
          から門跡と推測されている館の南中央部に神明神社があり、その脇に愛甲三郎館跡の
          石碑が建てられています。館の中心部は畑地に、その周辺は住宅地となっています。
           遺構としてはっきり見て取れるのは、神明社の東隣にある堀跡と土塁跡です。この堀は
          館の南面東側のもので、以前はその先に東面の堀も残っていたそうですが、道路の建設
          によって失われてしまったようです。
           ここに開発領主の館があったことは間違いなく、またそれが愛甲氏のものであったことも
          疑いないと考えられますが、ずばり愛甲季隆の館であったか否かについては留保が必要
          なように思われます。横山党愛甲氏以前の内記平大夫に連なる愛甲氏、季隆の兄義久、
          和田合戦以後の愛甲氏と、季隆と異なる居館を構えた可能性のある系統がいくつか考え
          られます。この点についての解答を得るのはかなり困難でしょうが。


           
 神明神社と愛甲三郎館跡の石碑。
館跡中心部現況。 
 神明社東隣の堀跡と土塁跡。


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