赤田城(あかだ)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 斎藤氏か
 遺構  : 曲輪、土塁、堀
 交通  : JR越後線刈羽駅徒歩100分


       <沿革>
           越後守護上杉氏重臣斎藤氏の居城である。越後斎藤氏は、南北朝時代の1360年代に上杉憲顕
          の配下として入部したとみられているが、詳しい経緯や系譜は定かでない。また、それまでは嵯峨
          源氏渡辺氏流の赤田氏が当地を治めており、赤田源太告が南朝に属して斎藤氏に攻め滅ぼされて
          いる。赤田城のひとつ南の峰には赤田古城があり、あるいは赤田氏がこちらを詰城とし、斎藤氏が
          新たに赤田城を築いたとも考えられるが、確証はない。
           戦国時代に守護代長尾氏が台頭すると、斎藤氏はこれに従った。長尾景虎が関東管領上杉氏を
          継承すると(上杉謙信)、赤田城主斎藤朝信は重臣として遇され、とくに武勇用兵に優れたことから
          「越後の鍾馗」や「赤田千挺槍」と称された。謙信が没すると、御館の乱では景勝を支持した。
           慶長三年(1598)に上杉家が会津へ転封となると、朝信の子景信は同行したとも隠棲したともいわ
          れる。いずれにせよ、このときに赤田城は廃城となったとみられる。


       <手記>
           赤田城は、西と北西の二又に尾根が伸びており、その間の谷筋には斎藤氏が開山した東福院が
          あります。東福院の南側から西尾根を登り、主郭を回って北西尾根へと下りる遊歩道が整備されて
          おり、どちらからでも一周できます。この遊歩道は、尾根を無理に彫り込んでいたり一旦登ったのに
          また下りたり、グネグネと無駄な遠回りをさせられたりとあまり合理的ではない造りをしているので、
          比高以上に疲れるのが難点です。原発のある刈羽村とて、公共事業費を余分につぎ込んでいるの
          ではないかと疑いたくなるくらいでした^^;
           西尾根から登ると、道の脇に出丸とその付け根の堀切が目につきます。主郭は広くはないものの
          2段に削平され、石碑が建っています。東の尾根筋にも曲輪群が続いていて、重臣斎藤氏の格に
          相応しいだけの規模はあるようですが、主郭周辺は藪化がひどく、覗き込むことも困難となっていま
          した。
           主郭の北の曲輪は城内で唯一眺望が開けており、原発を含め海沿いの景色が楽しめます。その
          先はまた遊歩道が勇躍乱舞していたり、謎の遊具のある園地になっていたりしていて、山城らしい
          雰囲気は保たれないまま麓に到着してしまいました。
           かの斎藤朝信の居城としては、だいぶ消化不良感の残る訪城となったのが残念です。

           
 東福院門前から赤田城跡を見上げる。
西尾根ルート登山口の説明板。 
 遊歩道のようす。
 見た目以上に疲れます。
西出丸付け根の堀切。 
 西出丸を見上げる。
主郭下段のようす。 
 主郭上段のようす。
主郭上段の石碑。 
 主郭東端付近のようす。
 その先はド藪で断念しました。
主郭北側の堀切。 
 主郭北の曲輪を望む。
主郭北の曲輪からの眺望。 
 北西尾根のようす。
 遺構かは不明です。
北西尾根の遊歩道。まるで前衛芸術(笑)。 
なぜ真っすぐ降りられないのかは謎です。 
 東福院。


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