赤山陣屋(あかやま)
 別称  : 赤山城
 分類  : 平城
 築城者: 伊奈忠治
 遺構  : 堀
 交通  : 埼玉高速鉄道新井宿駅または戸塚安行駅
       徒歩15分


       <沿革>
           初代関東郡代で小室1万石の藩主であった伊奈忠次の次男忠治は、別に赤山に7千石を与えられ
          旗本となった。関東郡代と小室藩は兄忠政が継いでいたが、忠政の子忠勝が元和五年(1619)に
          9歳で夭逝すると、小室藩は無嗣断絶となり、関東郡代は忠治が引き継ぐこととなった。
           赤山陣屋が築かれたのは寛永六年(1629)とされる。ただ、忠治はそれ以前から赤山領主だった
          とされているので、すでにあった陣屋を拡張したものとも考えられる。古図にしたがえば、その規模は
          約2万4千坪に及んだ。
           忠治から9代後の忠尊のときにお家騒動が発生し、寛政四年(1792)に忠尊は関東代官を罷免・
          改易され、赤山陣屋も廃された。背景には、関東郡代伊奈家の勢力増大を恐れた幕府内部の意向
          もあったといわれる。

       <手記>
           赤山陣屋は、東京外環自動車道川口東ICに隣接しており、県道越谷鳩ヶ谷線沿いの日枝神社前
          の交差点に「赤山城址入口」の石柱が建っています。一見すると舌状台地を利用した城のように見え
          ますが、周辺の地形はずっと複雑で、一言でいうなら湿地帯を巧みに利用した城です。街道に面した
          部分は地続きですが、その他の面はすべて浸食谷に緩やかに囲まれ、当時は湿地帯だったそうです。
          つまり、湿地や浸食谷のみを天然の要害として縄張りに取り込んだもので、航空写真などない時代
          に、これだけ巧みに広範な地形を縄張りに組み込んでいるあたりに、伊奈氏の卓越した土木手腕が
          うかがえます。
           こうした規模の大きさの為でしょう。現地では総じて赤山城と記されています。規模でいえば間違い
          なく近世城郭と呼ぶべきなのでしょうが、やはり伊奈氏は大名ではなく旗本なので、赤山陣屋とする
          のが正しいと思われます。
           現在陣屋跡一帯は城址公園といった感じに整備されています。完全な公園化ではないようで、いう
          なれば個人の畑地を部分的に借り受けて、歩道などを整備している感じです。南東隅の交差点から
          入ると、陣屋の外郭に建てられたという日枝神社があります。当時は山王三社と呼ばれる3つの社が
          あったそうです。神社の西側と北側に内堀が残っており、城内唯一といって良い遺構です。とくに神社
          裏手の堀が見事なのですが、ここに至るには本丸北西隅あたりから半分雑草に覆われた道をかなり
          分け入らなければならないので、見つけるのは困難です。
           本丸周辺は現在も畑地ですが、本丸南に石碑や説明板が設置されています。その南側には南堀と
          される部分が断続的に直線に並んでいるのですが、これはどうやら地元有志が近年新しく作ったもの
          のようです。
           外環道を挟んだ北側には出丸があったとされています。ここにはとくに城跡を示すようなものはない
          ので、地形から状況をうかがうのみです。ですが、谷越しに出丸跡を望むと、赤山陣屋がいかに規模
          の大きく、また地形を巧みに利用していたかが最もよく分かります。なお、上の地図の緑線は、陣屋
          の外郭をごく大まかになぞったものです。

           
 赤山城址碑。
東堀跡。 
 南堀跡。
 近年造られた模擬的なもののようです。
同上。 
 本丸のようす。
日枝神社。 
 日枝神社裏の空堀。
谷越しに出丸を望む。 


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