明智城(あけち)
 別称  : 長山城、明智長山城
 分類  : 山城
 築城者: 土岐頼兼
 遺構  : 曲輪跡、堀切
 交通  : 名鉄広見線明智駅徒歩15分


       <沿革>
           土岐氏5代頼清の二男土岐頼兼によって、康永元年(1342)に築かれたと伝わる。頼兼は
          その後明智氏を名乗ったとされるが、土岐氏の系譜上どこに位置するのか詳らかでない。
           一般には、明智光秀の出生した城とされている。ただし、恵那市明智町にも同名の明智城
          が存在し、こちらとする説もあり確定していない。また、両明智城以外にも光秀の出生地には
          諸説ある。
           弘治二年(1556)、明智城は斎藤義龍の軍勢に攻められ、2日間の攻防の末に落城した。
          このとき、城代を務めていた明智光安とその弟光久は、2人の甥であり嫡流の光秀に後事を
          託して城を脱出させたといわれる。
           光秀は、後に足利義昭を奉じて織田信長を頼り明智家を再興するが、明智城へ復帰する
          ことはなかったといわれる。このため、城は落城後自然廃城になったものと考えられる。


       <手記>
           明智駅周辺から南を望むと、いくつかの低い峰が東西に連なっているのが見えます。この
          峰の2〜3個を使って築られたのが明智城です。駅から城に向かって歩くと要所要所に案内
          が出ているため、城へは迷わず行けるものと思います。
           光蓮寺の脇の登城路から登ると、復興模擬大手門を抜けて整備された石畳を登ります。
          さほど険しくも高くもなく、二の丸と呼ばれる曲輪に到着します。このすぐ隣の峰に本丸が、
          さらに西出丸と呼ばれる曲輪が続いて、本城域を形成しています。
           城のすぐ裏手には住宅街が迫っていて、西出丸にはゲートボール場が造成されています。
          ただ、本丸の遺構は割と良好に残されていて、むしろ公園化にともなって二の丸や出丸が
          崩されているのが残念なくらいです。
           城からは、中山道(東山道)が東西に走るようすが見渡せ、遠くには兼山城址も望めます。
          宿駅が設けられていたかは分かりませんが、明智城には街道監視の意味合いもあったもの
          と思われます。
           とわいえ、お世辞にも堅城とはいいがたく、中世の典型的な小城址です。朝の散歩などに
          適した城跡といえるでしょう。


           
 明智城遠望。
登城口。 
 大手口の模擬城門。
 本丸跡。 
 本丸帯曲輪の通称馬場跡。
 二の丸跡の石碑。 
 西出丸。後方にはゲートボール場。
本丸の堀切。 


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