秋元城(あきもと)
 別称  : 小糸城
 分類  : 山城
 築城者: 秋元氏
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、虎口、土橋
 交通  : JR内房線君津駅からバス、
       「田中台」バス停下車徒歩5分(乗り継ぎ1回)


       <沿革>
           在地領主秋元氏の居城である。秋元氏は藤姓宇都宮氏庶流とされ、鎌倉時代初期に
          宇都宮頼綱の子泰業が上総国秋元荘を領したことにはじまるとされる。当初は清和市場
          の北の鎌滝に館を構えていたが、永正五年(1508)ごろに秋元城を築いたと伝わる。
           秋元氏というと、江戸時代に大名となり老中も輩出した深谷上杉氏家臣の系統がある。
          この家の祖秋元景朝(元景)は上総秋元氏の一族で、天文十年(1541)に故あって上総
          を離れ、深谷上杉憲賢に仕えたとされる。景朝の父の名は政朝とされるが、秋元氏本家
          との関係については定かでない。
           永禄七年(1564)の第二次国府台の戦いまでには里見氏に従っていたようで、同戦い
          で里見氏が北条氏に敗れると、秋元城は勢いに乗った北条勢に攻められた。城主秋元
          義久は討ち死にし、城も攻め落とされ、上総秋元氏は滅んだものとみられる。
           その後の秋元城については定かでない。


       <手記>
           秋元城は、君津市を縦貫する小糸川の中流域に位置する山城です。史料的にはよく
          分からない城でありながら、地元ではかなりリスペクトされているらしく、説明板や標柱を
          はじめ全体的に人の手でよく整備されています。
           この日は秋元氏の末裔と称する『大和之古城』のダイさんの案内で、その他の城仲間
          2人とともに登りました。上りはじめてすぐに、根小屋とされる広い削平地や、堀を兼ねた
          虎口などの遺構が散見されます。
           山頂は「西向三段」と呼ばれる3段の削平地と、千畳と呼ばれる城内でもっとも大きな
          曲輪を中心に構成されています。面白いのは、「西向三段」がその名のとおり山麓側で
          ある東を背に土塁を配し、見通しの利かない西側に向かって3段になっていることです。
          どのような理由があるのかは察しかねますが、麓から見られるとまずいことでもあったの
          でしょう(笑)。
           主城域の西には、土橋を渡って2つのピークがあります。その間は豪快な堀切で隔て
          られていて、そこから南側へ下りると、秋元城のもう1つのみどころである岩盤の畝堀が
          現れます。
           たしかに岩を削りぬいて箱状になっているのですが、堀というよりは岩の浴槽といった
          方が良いような異様な構造物です。尋常ではない工事量に比べて、防御力については
          それほどのものとは思えず、むしろ用水堀か何かの目的で造られたのではないかとも
          考えられます。
           そんな秋元城は、コンパクトながら規模や造作は大きく、とても一在地領主の動員力
          で築けるものとは思えません。おそらく、現在の遺構は里見氏によって完成されたもの
          とみて間違いないでしょう。また、現地説明板では秋元氏が「秋元荘一帯を守り抜いて」
          とあり、独立を保ったかのように書かれています。ですが、周囲を真里谷武田氏ついで
          里見氏に囲まれた上総国の要地が無所属でいられたとは考えにくく、両氏に相次いで
          服していたものと推測されます。

           
 秋元城址標柱
西向三段最上段のようす。 
 最上段から二段目、三段目を見下ろす。
三段目から続く千畳。 
 主城域の土塁。
主城域背後の岩盤土橋。 
 主城域背後の2つのピーク間の堀切。
岩盤畝堀その1。 
 その2。
その3。 
 登城路の堀切を兼ねた虎口。
字根小屋の削平地。 


BACK