秋山氏館(あきやまし) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 秋山光朝 | |
遺構 : 削平地、土塁か | |
交通 : JR中央本線甲府駅からバス 「荊沢」バス停下車徒歩20分 |
|
<沿革> 甲斐源氏流加賀美遠光の長男光朝は、巨摩郡秋山村に入植して秋山氏を称した。 甲斐源氏は源頼朝にしたがって源平合戦で活躍したが、鎌倉幕府が成立すると頼朝 にその勢力を危険視されるようになった。なかでも、光朝は平清盛の嫡男重盛の娘を 妻としていたため、とくに冷遇著しかった。文治元年(1185)、ついに光朝は謀叛の罪 を着せられ、鎌倉で処刑されたとも軍勢を差し向けられて雨鳴城ないし中野城で自害 したともいわれる。 館跡とされる熊野神社からは、光朝の十三回忌にあたる建久八年(1197)銘の経筒 が発掘されている。この経筒は光朝の弟加賀美光経によるものと推測され、光朝死後 秋山氏の館が廃されていたことがうかがえる。 承久三年(1221)の承久の乱に際し、光朝の一子光季を中心とした秋山一族の残党 が、東山道方面軍総大将武田信光の幕下に参じて活躍し、秋山の所領を回復した。 光季らは光朝の館跡を再び取り立てたとも考えられるが、詳細は定かでない。 光季の子孫からは、戦国時代に武田信玄に仕えて活躍した秋山虎繁(信友)を輩出 している。虎繁は、天正三年(1575)に城将を務めた美濃国岩村城の落城に際して 織田信長に処刑された。跡を継いだ養子の源三郎も、同十年(1582)の武田攻めに おいて、主君武田勝頼に殉じて果てた。これによって秋山領主秋山氏は滅亡し、秋山 氏館は遅ければこのときに廃されたものと推測される。 <手記> 秋山川の支脈に沿ってこんもりと突き出た丘の上に熊野神社が鎮座しており、この 丘全体が館跡とされています。境内には標柱や経筒の説明板があり、地域における 秋山氏の人気の高さがうかがえます。 古絵図には丘の周囲に堀があったとされていますが、今では畑や宅地となっており、 遺構の有無については各史料お茶を濁すような感じになっています。 神社本殿の裏手には2段の削平地があり、これはおそらく館時代から続く遺構だと 思われます。また、周囲の斜面には堀や虎口にみえる地形があるのですが、これら については遺構か否か判断に窮します。もし虎口まで備えていたとすると、平安時代 末期の光朝1代の館跡とするのは疑問が残ります。おそらく、虎繁のころまでとはいか ないものの、再興後も戦国時代に入るまでは居館として機能していたのではないかと 拝察されます。 |
|
館跡標柱。 | |
熊野神社本殿。 | |
本殿裏の削平地。 | |
削平地が2段となっているところ。 | |
堀跡か。さすがに近年の改変か。 | |
虎口跡か。 |