岩村城(いわむら)
 別称  : 霧ヶ城
 分類  : 山城
 築城者: 加藤景廉
 遺構  : 石垣、曲輪跡、虎口、井戸など
 交通  : 明智鉄道岩村駅徒歩15分


       <沿革>
           岩村城の歴史は、源頼朝の重臣である加藤景廉が恵那郡遠山荘の地頭に任命され、
          この地に館を構えたことにはじまる。当時の遠山荘は、恵那郡や木曽の一部にまで及ぶ
          広大なものであった。ただし、景廉自身は頼朝の側近として鎌倉に常駐していたため、
          実際に岩村に入ったのは景廉の長男景朝であった。このためか、岩村城の創建年代に
          ついては文治元年(1185)と建久六年(1195)の2説ある。
           景朝は遠山氏を名乗り、以後子孫は荘内に分家割拠した。室町時代には、遠山氏は
          土岐氏と並ぶ東濃の大豪族となった。創建当初の岩村城がどのようなもので、その後
          どのように発展していったかは詳らかでない。
           延元二年(1337)に新田義貞らの籠る金ヶ崎城が落城した際、義貞方の遠山三郎なる
          人物が霧ヶ城を一時放棄したと『太平記』にある。このころには、城としての体裁を整えて
          いたものと推察される。
           戦国時代に入って、遠山景友や景任が城を改修しことが記録にみられる。景任は織田
          信長の叔母を娶っていたが、2人に子はなく、信長の五男御坊丸(後の織田勝長)を養子
          としていた。
           元亀三年(1572)、甲斐の武田信玄は西上作戦の軍を起こし、美濃方面にも秋山虎繁
          (信友)に大軍を預けて差し向けた。景任は籠城戦の構えをみせたが、ほどなく病死した
          (戦傷が元で死んだとも)。景任亡き後、跡継ぎの御坊丸は幼かったため、景任未亡人
          が女城主として采配をとった。堅城ということもあり、城は容易には落ちなかった。しかし、
          折しも三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍が完敗し、岩村への援軍もままならぬ状態で
          あった。結局岩村城は、景任未亡人が虎繁に嫁するという条件を飲んで開城に及んだ。
          虎繁夫妻は岩村に留まり、御坊丸は甲斐へ人質に送られた。
           天正三年(1575)、長篠の戦いで武田勝頼に大勝した信長は、嫡男信忠に3万の大軍
          を与えて岩村城奪還に乗り出した。攻城は5か月に及んだが、信長が虎繁夫妻も含めた
          城兵の助命を条件として開城を提案し、虎繁もこれを受け入れて城を明け渡した。しかし
          信長は、直後に約定を違えて虎繁夫妻を捕縛し、大将陣の丘で逆さ磔の刑に処した。
          虎繁配下の城兵も皆殺しにされたといわれる。
           城は川尻秀隆(鎮吉)に与えられ、近世城郭としての輪郭が整えられた。武田氏滅亡
          後、秀隆が甲斐に移されると、信忠側近の団忠正が5万石で入城した。しかし、忠正は
          本能寺の変で主君信忠と命運を共にした。変後、東濃は金山城主森長可によって席巻
          され、岩村城も長可の支配下となった。長可は各務兵庫元正を城代に任じ、この元正が
          城を近代城郭として完成させたといわれている。天正十二年(1584)の小牧・長久手の
          戦いでは、徳川家康の支援を受けた遠山友景や遠山利景が旧領奪回のため岩村城に
          攻め寄せたが、元正らはこれを撃退した。
           長久手の本戦で長可が戦死すると、弟の忠政が跡を継ぐが、後に信州海津城に転封
          された。岩村城には田丸直昌が4万石で入った。直昌は関ヶ原の戦いで西軍についた
          ため改易され、次いで大給松平家乗が入り、岩村藩が成立した。家乗の時代に、それ
          まで山上にあった居館が山麓に移され、城下町が整備された。
           正保二年(1645年)、大給松平氏は館林藩に転封となり、代わって丹羽氏信が三河
          伊保藩から入封した。元禄十五年(1702)、再び大給松平家から松平乗紀が2万石で
          封じられ、後に3万石に加増された。以後明治維新まで、大給松平氏が支配した。


       <手記>
           日本三大山城、あるいは日本100名城の1つとして全国に有名な城ですが、交通の
          利便性はあまり良いとはいえません。今でこそ、主要ルートから外れた山間の奥地と
          いうイメージですが、当時は信濃から東濃へ移動するのに、伊那から治部坂峠を越え
          て岩村に至るのが、大軍を進めるうえではもっとも適したルートでした。そのため、岩村
          は武田・織田双方にとって重要な拠点であり、係争の地となったのです。
           ところで岩村は城でも有名ですが、訪れてみて圧巻だったのは、駅前から大手まで
          途切れることなく続く、木造卯達の古い町並みです。これまで中山道歩きなどをやって
          きてさまざまな古い町並みを目にしてきましたが、岩村ほど、長く完全な形で残された
          町並みはそうありません。岩村まで走る明智鉄道もまたレトロな雰囲気を醸していて、
          城以外にも訪れる価値の充分にある町だと感じました。
           肝心の岩村城の方ですが、江戸諸藩で最も標高が高いところにある城(海抜721m)
          ということです。ただ麓からの比高はそれほど高いというものでもなく、大手口から山上
          の本城域までは、歩いて10分とかかりません。それでも登城路の藤坂は、石畳が敷か
          れているとはいえ急な隘路で、堅城であることには違いありません。
           岩村城の最大の見どころは、畳橋のかかる大手門跡だと思います。現在橋はなく、
          下の堀切を通って大手門跡にたどり着きます。門跡から見下ろせば、その要害ぶりが
          手に取るように分かるでしょう。ただ、逆に大手門から先は本丸までさしたる要害には
          つきあたらないため、この畳橋(戦時には橋板を畳むことから名がついた)と大手門の
          険が、城の最大最要の防御ラインであったと想定されます。
           本丸に侵入するには、東曲輪の六段石垣と2つの埋門のうち、どちらかを抜けなけれ
          ばなりません。本丸も周囲を多聞櫓で囲っていて、構造的には本丸だけでも充分戦闘
          可能といえます。ただ、やはり大手門畳橋の険を越えられると、さしもの堅城岩村城も
          風前の灯となったであろうと思われます。
           このとおり三大山城の名に恥じない威容を誇る岩村城ですが、残念なのは二の丸が
          樹林に覆われて探索不能であったことと、同じく樹木の整理がされていないために、
          城中に眺望の開けたポイントが1つもないことです。どちらも行政の管理次第ですので、
          せっかくの名城であり貴重な観光資源なのですから、ぜひとも整備を徹底していただき
          たいと思います。


           
 山麓藩主邸跡の模擬太鼓櫓と多聞櫓。
登城路である藤坂と一の門跡。 
戦時には、藤坂に急造の門を建てて防戦したそうです。 
 土岐坂の石垣。城内で最も古い石垣だそうです。
 手前より、畳橋跡・大手三重櫓跡・大手門跡。 
 畳橋跡を上から。
 向こうの石垣から手前足元へ橋が架かっていました。
 現在は堀切を通って登ります。
 霧ヶ井。霧ヶ城の別称を生んだとされる井戸。 
現在も水が湧いています。 
 二の丸菱櫓跡の矩形石垣。
本丸手前の6段の石垣。 
 本丸埋門跡。
  長局埋門跡。 
本丸へはどちらかの埋門を通らねば入れません。 
 本丸の様子。
 本丸帯曲輪奥の通称南曲輪と堀切。 
近代化された後も残った数少ない中世の遺構だそうです。 


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