天霧城(あまぎり)
 別称  : 雨霧城
 分類  : 山城
 築城者: 香川氏
 遺構  : 曲輪、石塁、土塁、堀、虎口、井戸
 交通  : JR予讃線詫間駅よりバス
      「ふれあいパークみの」バス停下車徒歩40分


       <沿革>
           貞治元/正平十七年(1362)、細川頼之は南朝についた従弟の細川清氏の追討を幕府
          から命じられ、白峰合戦(高屋合戦)で清氏を討ち取った。讃岐・阿波を掌握した頼之は、
          自身の被官の東国武士に讃岐国内の所領を分配した。そのうちの1人香川氏は多度津に
          居館を構え、後に天霧山に詰城を築いた。香川氏は桓武平氏良文流鎌倉氏の後裔で、
          鎌倉権五郎景正の曽孫家政が相模国高座郡香川郷に拠ったことにはじまる。讃岐に入国
          したのは、『全讃史』によれば香川兵部少輔景房とされ、『西讃府志』によれば香川刑部
          少輔景則とされる。
           香川氏は15世紀初頭には西讃岐守護代となり、応仁元年(1467)にはじまる応仁の乱
          においては、香川元明・安富盛長・香西元資・奈良元安の4人が細川四天王として東軍で
          活躍した。永正四年(1507)に細川政元が暗殺され、両細川の乱と呼ばれる内紛状態に
          陥ると、香川氏は細川家中で台頭した三好氏に対抗するため、大内氏と結んで半ば独立
          勢力化した。
           永禄元年(1558)九月、三好長慶の実弟三好実休(之虎、義賢)が、香川氏を討つべく
          天霧城に迫った。香川之景は三野・秋山・斎藤氏などを糾合し、天霧城の内外に軍勢を
          配置した。その堅固なようすを見た実休は、本格的な攻城戦にまで至ることなく和議を
          提案した。之景もこれをのみ、香川氏は三好氏に属することになった。
           天正七年(1579)、阿波白地城に進出した土佐の長宗我部元親が香川氏攻略に乗り
          出した。信景(織田信長に通じて之景から改名)は抵抗するも、支城を次々と落とされて
          降伏した。元親の次男親和を養子に迎えたため、天霧城は長宗我部氏の讃岐攻略の
          拠点となった。
           天正十三年(1585)の羽柴(豊臣)秀吉による四国平定戦では天霧城が戦場となる
          ことはなかった。戦後、香川氏は取りつぶしとなり、信景は土佐へ移った。讃岐一国は
          仙石秀久に与えらえたが、天霧城はそのまま廃城となった。


       <手記>
           天霧山はその名のとおり霧を突き抜け天に聳えるような急峻な山容で、弥谷山や
          黒戸山とともに独立山塊を形成しています。標高が382mあり、海も近いことから、相当
          な比高差であることがうかがえます。山裾も広く、この城を完全に包囲するにはかなり
          の大軍勢が必要となるでしょう。
           城山へは、南西にある四国八十八箇所の1つ弥谷寺から登山道があります。また、
          北西麓の白方地区から登る道もあり、香川氏の平時の館は多度津にあったということ
          から、こちらが大手だったものと推測されます。
           弥谷寺は弥谷山の中腹にあり、山麓の道路からかなりの階段を登らなければなりま
          せん。ですが、途中から寺の私道をシャトルバスが走っているので、これを利用すれば
          ショートカットできます。ただし、しっかり運賃を徴収されます。このあたり、八十八箇所
          のお寺はどこも抜け目がありません。弥谷寺には香川氏累代の墓所もあります。
           天霧山と弥谷山の間には2つの小ピークがあり、どちらも曲輪化されていて、土塁が
          残っています。弥谷寺・白方地区のどちらから登っても、道は城の最西端と思われる
          2つのピークの西側にたどり着きます。
           主城域に至るには、「犬返しの険」と呼ばれる急な斜面を登らなければなりません。
          上がりきったところには、石塁の一部が残っています。その先は、2つの削平地を経て
          本丸に到達します。天霧城は本丸の南北に曲輪が一本筋で続いている単純な縄張り
          で、反対側には二の丸・三の丸が一二三壇に並んでいます。三の丸の側面にも石塁
          があり、その下の曲輪には喰い違いの虎口も見えます。
           主郭部の北東にはもう1つピークがあり、その鞍部には、私が歩いた範囲では城内
          唯一の堀切があります。北東のピークには2つの方形区画があり、主郭部よりも整って
          いる印象を受けます。この方面に仮想敵があったのは長宗我部氏でしょうから、降伏
          後に改修されたのかもしれません。
           天霧山は南東面が採石によって大きく崩されています。この採石場はかなり昔から
          あったようで、多くの資料で遺構の破壊が懸念されています。ですが、現状では少なく
          とも主城域は充分保全されているので、これ以上進行しなければ、許容の範囲として
          そこまで目くじらを立てなくても良いような気はします。
           ちなみに、天霧城の城域は多度津町と善通寺市の市町境でピッタリ半々に分かれ
          ていて、登山口の弥谷寺は三豊市にあります。ここでは、香川氏の居館が多度津に
          置かれていたことなどから、天霧城を多度津町の項に入れています。

 東から天霧山を望む。
弥谷山との間の2つの小ピークのうち、 
西側の曲輪の土塁。 
 小ピークから主城域を望む。
東側の小ピークの曲輪跡と土塁。 
 犬返しの険。
犬返しの険上部の石塁。 
 犬返しの険の上の曲輪。
その上の細尾根状の曲輪。 
 本丸背後の虎口下部。
同上部。 
 本丸跡。
本丸跡の櫓台状箇所。 
 二の丸跡。
三の丸跡。 
 三の丸跡側面の石塁。
三の丸の虎口跡。 
 三の丸下の曲輪の喰い違い状虎口跡。
主郭部北東鞍部の堀切。 
 北東ピークの曲輪跡。
曲輪内の方形区画。 
 同じく北東先端部分の方形区画。
井戸跡。 
 井戸輪跡脇の曲輪。


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