白地城(はくち)
 別称  : 白地大西城
 分類  : 平山城
 築城者: 近藤氏か
 遺構  : 削平地、土塁
 交通  : JR土讃線三縄駅よりバス
       「白地城址」バス停下車


       <沿革>
           建武二年(1335)、田井荘庄司近藤氏によって築かれ、近藤氏は三好郡西端の
          この地を大西郷と改め、大西氏を称したとされる。ただし、大西氏の祖を小笠原氏
          や忌部氏とする説もあり、定説をみない。
           戦国時代後期の城主大西頼武は、三好長慶の妹を娶って阿波西部だけでなく
          周辺3国にも影響力を及ぼした。頼武の子覚養は、土佐を平定した長宗我部元親
          の攻勢に遭い、弟の頼包を人質に差し出して講和した。しかし、天正五年(1577)
          には再び三好方に転じたため、元親に攻め込まれることになった。頼包の道案内
          により田尾城が落城すると、白地城もまもなく攻め落とされた。頼武は落ち延びる
          途中で自害し、覚養は讃岐国麻城主近藤国久を頼った。
           元親は白地城を四国4か国すべてに通じる最重要拠点と位置づけ、改修した。
          以後、白地城は長宗我部氏の四国平定の橋頭保となった。普段は城代が置か
          れたものと推測されるが、それが誰であったかは定かでない。
           天正十三年(1585)の羽柴(豊臣)秀吉による四国攻めにおいても、元親は
          白地城に入って全戦線の指揮を執った。しかし、一宮城脇城岩倉城といった
          重要拠点が次々と落とされると、元親は一宮城から撤退した重臣谷忠澄の諫言
          を容れて降伏した。
           戦後、蜂須賀家政が阿波一国に封じられると、白地城は廃城となった。


       <手記>
           長宗我部氏の四国攻略の過程で欠かすことのできない重要拠点として有名な
          白地城ですが、その跡は旧かんぽの宿(現「あわの抄」)となっていて、ほとんど
          残っていません。逆にいうと、郵政省が税金を注ぎ込んで巨大保養施設を建造
          するほど目に付くポイントでもあります。吉野川が直角カーブを描く屈曲点にせり
          出した舌状の丘陵を利用した城で、JR三縄駅から歩くか、運がよければ丘の上
          までバスが走っています。
           最寄りのバス停の名前はその名も「白地城址」で、その前には説明板が設置
          されています。大きな建物の建っているあたりが本丸跡で、かつては二重の堀
          や土塁が残っていたそうです。
           一段下の曲輪跡と思しき場所には、児童公園とデイケアセンター、そして大西
          神社があります。神社脇には立派な城址碑もあります。この部分の周囲斜面は
          明らかに人工の切岸となっていて、また神社背後には土塁跡も認められます。
          ここが白地城址で唯一残された城跡らしい部分といえるでしょう。

           
 白地城址碑。
白地城址バス停と、本丸跡に建つ旧かんぽの宿。 
 城跡説明板。
大西神社背後の土塁。 
 デイケアセンター下の切岸。
麓へ続く古道。 
 大西神社。
児童公園。曲輪跡か。 


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