![]() |
安濃城(あのう) |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 細野藤光 | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀、虎口 | |
交通 : 津駅からバスに乗り、「安濃」下車徒歩10分 | |
<沿革> 伊勢の有力国人・長野稙藤の子で分家の藤野氏を継いだ細野藤光によって、それまでの 細野城に代わる新たな居城として、弘治年間(1555〜58)に築かれたと伝わる。藤光の子・ 藤敦のときに、現在の規模に拡張されたといわれる。 藤敦は武勇を以て知られ、永禄十一年(1568)に織田信長が伊勢へ侵攻すると徹底抗戦 を主張した。織田家重臣・滝川一益が攻め寄せたが、安濃城を落とすことはできなかったと いわれる。 しかし、藤敦の弟・分部光嘉や川北藤元は織田氏に通じ、主君・長野具藤に讒言して藤敦 を攻めさせた。もともと藤敦は、北畠氏から養子に入った具藤と不仲であったといわれ、逆に 具藤を攻めて実家へと追いやった。こうして藤敦は他の長野家臣とともに織田氏に降伏し、 長野氏は信長の弟・信包が継承した。 だが藤敦は信包とも折り合いが悪く、天正八年(1580)に信包の攻撃を受けると、安濃城に 火を放って蒲生氏郷を頼った。安濃城は焼け落ちたまま廃城となったとみられる。 <手記> 安濃川左岸の丘陵地帯の一角に築かれた城です。主郭は阿由多神社となっていて、上の 地図にあるとおり南麓から参道が通じています。集落内の道は狭いので、美濃屋川を渡った 安濃区集落センターの駐車場を借りるとよいでしょう。 境内の北西辺には櫓台状土塁や深い空堀が残っており、大きな見どころとなっています。 土塁は郭内側にももう1本並行しているのですが、どのような用途なのかは判断に窮します。 南東辺の参道とは別のところに、虎口も残存していました。 主郭の南東には浅い土塁や空堀で囲まれた方形の区画が多数並んでおり、防御力の高い 主郭と多くの方形区画という組み合わせは北勢にしばしば見られる構造です。長野氏や関氏 など中勢の勢力圏ではメジャーとはいえず、細野氏がなぜ安濃城に北勢スタイルを導入した のか、個人的に大きな関心があります。さらにいえば、私には北勢式城館が防衛面で優れて いるとはとても思えず、どのようにしてかの滝川一益の攻撃をもしのいだのか、こちらも興味を そそられる点です。 いずれにせよ、安濃城は主郭部のほか南東側に2つのブロックに分かれて展開する、「中勢 地域最大〔規模〕の城跡」(現地説明板より〔〕内は筆者加筆)であるのは間違いないでしょう。 |
|
南西から安濃城跡を望む。 | |
南西麓から見上げる。 左手が主郭部。右端のブロックまで城域が続きます。 |
|
阿由多神社参道口。 | |
参道中途の削平地。 | |
主郭南西辺の土橋状態地形。 | |
阿由多神社。 | |
境内の説明板。 | |
境内北西隅の櫓台状土塁。 | |
主郭北西辺の二重の土塁。 | |
二重の土塁の間。 ここは郭内です。 |
|
北西辺の空堀を見下ろす。 | |
堀底のようす。 | |
南東辺の虎口跡 | |
南東辺の空堀。 | |
主郭ブロックの方形区画の溝状地形。 | |
同じく空堀。 | |
同じく方形区画の1つ。 | |
中間ブロックの曲輪状区画。 | |
同上。 | |
中間ブロックの張り出し土塁。 | |
中間ブロックの土塁。 | |
南東ブロックの切岸。 | |
南東ブロックの曲輪間の堀兼通路。 | |
南東ブロック南側の曲輪。 | |
同上。 | |
同じく北側の曲輪。 | |
同上。 |