アクインクム (Aquincum) |
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別称 : オーブダ | |
分類 : 平城 | |
築城者: ローマ帝国 | |
交通 : Szentlélek tér駅 | |
地図 :(Google マップ) | |
<沿革> 紀元後1世紀にローマ帝国の境界線としてリーメスが建設されると、現在のオーブダの 地に兵営(カストルム)が置かれた。アクインクムと名付けられたこの兵営は、西暦90年 ごろには6000人の兵が駐留する規模にまで拡張された。並行して付近に町場も整備され、 2世紀初頭にパンノニア属州が上パンノニア属州と下パンノニア属州とに分割されると、 アクインクムは後者の州都となった。194年にはアクインクムの市民区が植民市(コロニア) に昇格し、このころには人口3~4万人ほどの都市に成長したと推察されている。296年に パンノニアがさらに4つに分割されると、アクインクムは州都の地位を失った。 4世紀末ごろになると、ローマ帝国はゲルマン民族の大移動やフン族の侵入により圧迫 を受けるようになっていった。433年、西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の母ガッラ・ プラキディアと対立したローマの将軍アエティウスは、フン族の王ルーアと協定を結び、 兵力を提供してもらう代わりにフン族のパンノニア支配を認めた。その後、アクインクムの 名は史料からは姿を消した。 9世紀後半からマジャール人がハンガリー平原に入植し、1000年にイシュトヴァーン1世 がハンガリー王に即位したことでハンガリー王国が成立した。その都はエステルゴムに 置かれたが、かつてのアクインクムの近くにも王宮が建設された。この王宮を含む新しい 町は、フン族の王ブレダのハンガリー語名である「ブダ」と名付けられた。 1240~41年にモンゴル帝国軍がハンガリーおよびポーランドを蹂躙すると、ハンガリー 王ベーラ4世は平地にあるブダでは防衛が困難と判断し、南方にある丘に新しくブダ城を 築いた。町場も城山の麓に移転し、残されたかつてのブダは「オーブダ(古ブダの意)」と 呼ばれるようになった。 <手記> オーブダはブダ城の北4kmほどのところにあり、現在はブダペスト市内の1地区となって います。地下鉄または路面電車で国会議事堂対岸のバッチャーニ広場(Batthyány tér) 駅へ行き、そこで近郊列車に乗り換えてセントレーレク広場(Szentlélek tér)駅で降りる と、そこがオーブダ地区の角になります。 オーブダは至って小さな町で、中央広場の周囲に中世風の建物がいくつか立ち並んで いるものの、かつて王宮が置かれていた都の跡という雰囲気は感じられません。4人の 傘を持った女性の彫像『雨の散歩』をはじめ、彫刻が点在しているのが現在のオーブダの 観光の見どころです。 中央広場から西に入ると、共産主義時代風の集合住宅の前庭にローマ時代の遺跡が 現れます。周囲はただの団地という感じなので、ちょっと突拍子もない感じもします。ここ には説明板もあり、当時のアクインクムのようすがイラストで描かれています。説明板に よれば、ここはアクインクムの兵営の東辺にあたるようです。 さらに西に向かうと大きなバイパス同士の立体交差点があります。ここを渡るには地下 道を通らなければならないのですが、この地下道により大きな遺跡が展示されています。 おそらく、立体交差建設に際して発見・発掘されたものと思われます。説明板によれば、 ここはアクインクム兵営内の浴場および殿舎跡と考えられてるようです。遺跡内には見学 ルートも整備されていて、内部を歩いて巡ることができます。 私はもともとこの場所のことは知りませんでした。オーブダ観光のついでに絵はがきを 出そうと道行く人に郵便局はどこか訪ねたところ、交差点の向こうのショッピングモールに あるとのこと。その途中で偶然に見つけた次第です。こうしてふとしたことで城跡の遺構に 出会えるというのは、なんとも嬉しいものです。 ちなみに、オーブダの北2kmほどのところにはその名も「アクインクム」という地区があり、 ここにも遺跡とアクインクム博物館という施設があります。今となってはなぜか私はこちら にも気づかずじまいでした。こちらの遺跡は兵営に対する市民区とみられているそうです。 オーブダが建設されたことで兵営部分は埋まってしまい、また歴史的にも市民区の方が 長続きしたでしょうから、古くからこちらが単にアクインクムとして語り継がれてきたものと 拝察されます。 |
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立体交差点下の遺跡。 | |
同上。 | |
同上。浴場跡だそうです。 | |
地下道内のディスプレイ。 | |
団地脇の遺構。 兵営の東辺にあたります。 |
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想像復元イラスト。 | |
オーブダの中央広場。 | |
おまけ:彫刻『雨の散歩』。 |