ブダ城
(Buda Castle)
 別称  : ブダ王宮
 分類  : 平山城
 築城者: ベーラ4世
 交通  : デアーク・フェレンツ広場駅から徒歩またはバス
 地図  :(Google マップ


       <沿革>
          1241年にモンゴル軍の侵攻を受けた後、ハンガリー王ベーラ4世は平地にあった
         ローマ時代に端を発するブダの街では防衛は困難と判断し、その南にある丘の上に
         新たに城塞を築いた。街も山麓に移し、周囲には城壁を巡らした。この遷都により、
         それまでのブダはオーブダ(古ブダの意)と呼ばれるようになった。正確な築城時期
         については、1242〜65年と諸説あり定かでない。
          現在に残る宮殿の建物のうち、最古のものは14世紀中ごろのラヨシュ1世の代に
         造営された。ハンガリー王のジギスムント(ジグモンド)が1410年に神聖ローマ皇帝
         に即位すると、ブダ城は大きく拡張された。
          15世紀後半のハンガリー王マーチャーシュ1世の代に、ハンガリー王国は最盛期
         を迎えた。マーチャーシュ1世はルネサンス文化を取り入れ、ブダ城の王宮をさらに
         増改築した。
          1526年のモハーチの戦いでマーチャーシュ1世の孫のラヨシュ2世がオスマン軍に
         敗れて戦死すると、ラヨシュ2世の義兄で神聖ローマ皇帝のフェルディナント1世が
         ハンガリー王位を継承した。これにより、ブダ城主の地位もハプスブルク家に帰する
         ことになった。
          その後、ブダの街はオスマン軍によって何度も包囲・掠奪されてきたが、ブダ城
         自体はなんとか持ちこたえていた。しかし、1541年の包囲によってついに開城し、
         ブダはこの時から145年にわたってオスマン帝国領ハンガリーに組み入れられた。
         1578年には火薬庫に落雷したことから大爆発を起こし、宮殿の大部分が吹き飛ぶ
         とともに、2000人以上が死亡したとされる。ハプスブルク家が断続的にブダ奪還の
         兵を起こしたため、オスマン帝国はブダ城の防衛施設は再建したものの、宮殿に
         ついては荒廃したままに留め置かれた。
          1684年、ロレーヌ公シャルル5世率いるハプスブルク軍がブダ城を包囲した。この
         ときは攻め落とせなかったものの、2年後の1686年に再びブダ城を囲み、2ヶ月に
         およぶ激しい攻防戦の末、9月2日についに落城した(ブダ包囲)。この戦いで城は
         完全に破壊されたが、オスマン軍の反攻に備えるために城壁だけはまもなく仮の
         状態で再建された。
          1714年になって、皇帝カール6世(ハンガリー王としてはカーロイ3世)はようやく
         ブダ城の宮殿跡の残骸撤去と、調度品や美術品の救出を命じた。その跡地には、
         まもなくバロック様式の小さな殿舎が建てられた。
          カール6世の娘の女帝マリア・テレジアの代に至って、ようやく王族が住まうに
         足る規模の宮殿が完成した。1764年には、マリア・テレジア自身がブダ城に行幸
         している。新生ブダ城が完成を見たのは、1770年のこととされる。
          1848年、ハンガリー王国がオーストリア帝国からの自立を求めてハンガリー革命
         を起こすと、ブダ城はハンガリー軍に包囲され、一部がダメージを受けた。19世紀
         末から20世紀初頭にかけては、マーチャーシュ教会の改築や漁夫の砦の建造など
         建築芸術の中心としての側面が強くなった。
          第二次世界大戦末期の1944年10月、ドイツ軍司令部がブダ城を占拠した。同年
         12月にはソ連によるブダベスト包囲戦が始まり、ブダ城は主戦場の1つとなった。
         戦いは年をまたいで続いたが、補給を断たれたドイツ・ハンガリー軍2万8千人は
         2月11日夜に城から撤退し、半数以上が戦死あるいは捕虜となった。城に残った
         守備兵も、同月13日に降伏した。この包囲戦で、ブダ城を含むブダペストの街は
         約80%が灰燼に帰した。城の再建は1960年代から始まり、1978年に完了した。

       <手記>
          ブダペストはハンガリーの首都ですが、ブダとペストはもともと別々の街であった
         という事実は、割と知られていると思います。北から南に流れるドナウ川の東岸の
         平地がペスト、西側の丘陵地帯がブダになります。
          ブダ城はドナウ川沿いの細長い独立丘に築かれていますが、はじめから独立丘
         のかは定かでありません。かつては丘全体および丘と川の間が城壁で囲まれて
         いたものと思われ、丘の南半分が主城域となっています。最初期の城の中心部
         がどこにあったのかははっきりしていないそうですが、地形を見るに王宮が建って
         いるあたりと同じとみて良さそうです。
          城山の上へはセーチェーニ鎖橋のたもとからケーブルカーがありますが、個人的
         にはおすすめできません。年代物のようなのでそれ自体が観光スポットなのかも
         知れませんが、混んでいるうえにケーブルカーですからキャパシティも少なく、列が
         ちっとも進みません。バスも丘の上まで通っていますし、それほど高い山ではない
         ので、歩いて登っても大したことはありません。
          とくに城好きなら、往復のどちらかは城山の先端部分を回って歩いた方が良いで
         しょう。こちらには近世風の円いバッテリーや中世風の城門、城壁の内部の地下
         兵営などがあります。もちろんほとんど復元でしょうからある程度差し引いて見な
         ければなりませんが、正面ルートよりは城跡らしさをずっと感じることができます。
         とりわけ地下兵営などは比較的破壊を免れているでしょうから、見ごたえがあり
         ます。なによりこちらには観光客がほとんど来ないので、思う存分のびのびと巡る
         ことができます。
          王宮内部の見学は、もろもろの理由によりパスしました。むしろ興味を引かれた
         のは、その北西部にある遺跡部分です。発掘調査中なのかは分かりませんが、
         ローマの都市遺構のような基壇部の石積み区画が野晒しにされています。こちら
         も、現在見られるかつての城の遺構としては貴重なものといえると思います。
          丘の北西半分は観光街になっていて、数本ある大きな通り沿いには飲食店や
         土産物店、博物館などが並んでいます。ここで私のイチオシは、大通りから外れた
         西辺の城壁沿いを歩くルートです。主要コースから1本逸れるだけで騒々しい団体
         外国人観光客は皆無になり、城壁の上から景色を楽しみつつのんびりと散策が
         できます。途中にはバッテリーを利用したオシャレなカフェがあったので、ビールを
         一杯いただきました。
          この城壁は下から見るのもおすすめです。途中に「1686」とプレートがはめられた
         箇所があり、あるいは17世紀以来の希少な現存遺構なのかもしれません。麓への
         道が分からない場合は、「岩窟病院(Hospital in the Rock)」はどこかと尋ねれば
         大丈夫です。岩窟病院は、大戦中に使われた防空壕の野戦病院跡です。
          さて、現在のブダ城の丘は、王宮のほかにもいろいろなスポットが集まったブダ
         ペスト随一の観光名所です。その中の1つ「漁夫の砦」は、砦とつくことから城塞の
         一部と思われるかもしれません。ですが、これは防衛施設ではなく、純粋な芸術
         建築。ハンガリーの建国千年祭における市街美化計画の一環として、1902年に
         建築家シュレク・フリジェシュによって設計・造営されたものです。とはいえここから
         の景色は絶佳で、ハンガリー王の気分を味わうには一番の場所と思います。

 ブダ城の夜景。
ツィタデッラから見たブダ城。 
 城山南端部の円形バッテリー。
同じく中世風の城門。 
 同じく小さな城門。
地下兵営。 
 王宮付近の城壁上からの眺望。
王宮北西部の遺跡部分。 
 西辺の城壁上。
西辺の城壁。 
 同上。
西辺のバッテリー。 
 城山に建つマーチャーシュ教会。
 以下おまけの城山観光シリーズです。
教会内部。 
 漁夫の砦。
漁夫の砦から望む国会議事堂。 


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