荒川城(あらかわ) | |
別称 : 八ツ面城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 荒川満氏 | |
遺構 : 土塁か | |
交通 : 名鉄西尾線桜町前駅または西尾口駅 徒歩15分 |
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<沿革> 足利一門荒川氏の居城である。荒川氏は足利氏の祖にあたる源義康の庶長子矢田義清 の子、広沢義実の三男戸賀崎義宗の次男満氏にはじまる。 満氏の曽孫とされる詮頼は、足利尊氏・義詮に仕えて石見守護となった。しかし、康暦元/ 天授五年(1379)の康暦の政変で管領細川頼之が失脚すると、詮頼も勢力を失い守護職を 解かれ、消息が途絶えることとなった。 徳川家臣として知られる伊奈氏は、詮頼の曽孫易氏が、信濃国伊那郡に所領を得て下向 したことにはじまるとされる。真偽は明らかでないが、事実とすれば荒川城はこのときに一旦 廃城となったものと考えられる。 戦国時代の16世紀前半に、東条城主吉良持清の次男義広が荒川氏を名乗った。前述の とおり既に絶えていた家名を再興したものとみられるが、詳細は定かでない。義広の居城は 八ツ面城と呼ばれているが、一般にはかつての荒川城と同じものと考えられている。 永禄四年(1561)、今川家から自立した松平元康(徳川家康)が東条吉良義昭を攻めると、 義広は元康に与し、義広は元康の異母妹の市場姫を娶った。しかし、同六年(1563)の三河 一向一揆に際して、義広は義昭とともに一揆方に属したため、戦後に三河国を追放された。 その後の荒川城については不明である。 <手記> 荒川城は八ツ面山の北西麓付近にあったとされていますが、詳しい所在地は明らかでは ありません。最も有力とされているのは、八ツ面小学校敷地です。他方で、上の地図に緑線 で示した小学校北東の住宅街に、土塁および堀跡といわれる地形が見られます。ただ、この 土塁を遺構とした際に、城の構造をうまくイメージすることができず、城砦の造作かどうかは 疑問が残ります。 「今昔マップ」の古地図を参照すると、小学校のあたりがちょうど台地隅で隔絶された区画 となっていて、やはり城館跡とするのに最も妥当なように思われます。あるいは、その周辺 に荒川氏の根古屋が営まれており、先の土塁や堀は家臣団屋敷等のものかもしれません。 |
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八ツ面小学校。 | |
小学校北東の、土塁・堀跡とされる地形。 | |
同上。 |