東条城(とうじょう)
 別称  : 東祥城
 分類  : 平山城
 築城者: 吉良義継
 遺構  : 曲輪、土塁、虎口
 交通  : 名鉄西尾線上横須賀駅徒歩25分


       <沿革>
           承久三年(1221)の承久の乱での戦功により三河守護となった足利義氏の三男義継は、
          吉良荘東条に拠って吉良姓を称した。義氏の庶長子長氏も同荘西条に入植して吉良氏を
          名乗ったため、それぞれ東条吉良氏・西条吉良氏と呼ばれる。東条城の築城者は義継と
          されるが、確証はない。
           義継の曽孫貞家は、足利尊氏に従って転戦し、興国六/康永四年(1345)に初代奥州
          管領に任じられた。貞家は東北へ下向して奥州吉良氏の祖となり、東条は西条吉良家に
          接収された。
           観応の擾乱に際し、西条吉良家の吉良満義・満貞父子は直義方に属していたが、正平
          十一/延文元年(1356)に満義が没すると、尊氏方を支持する吉良氏被官が満貞の弟の
          尊義を東条城に擁立した。義継の系統と区別する場合は、義継流を前期東条(吉良氏)、
          尊義以降を後期東条と呼ぶ。両吉良氏はしばらく争ったが、正平十五/延文五年(1360)
          に満貞が北朝勢に敗れて室町幕府に帰順したため、両家も併存する形で講和した。
           応仁の乱が勃発すると、西条吉良義真は東軍、東条吉良義藤は西軍と相分かれて再び
          抗争した。義藤は義真に敗れて国を逐われたとする説もあるが、吉良荘での大きな戦い
          の記録はなく、実際にはいずれかの時期に和議に及んだとみられている。江戸時代末期
          に成立した『三河軍記』によれば、義藤の遺児持清は幼少であったため、青野城主松平
          義春が後見となり、東条城に入って東条松平家を興したとされる。義春は松平清康(徳川
          家康の祖父)の叔父にあたる。ただ、義春が持清の後見とするには世代が合わないため、
          この伝承は後世の創作と考えられている。
           持清の子の持広は西条吉良義堯の次男義安を養子としていたが、義堯の嫡男義郷が
          天文六年(1537)に没したため、急遽義安が西条吉良家を継いだ。しかし、同八年(1539)
          に持広も病没すると、義安は弟義昭に西条吉良家を継がせ、自身は東条城に入って東条
          吉良家当主となった。
           天文十八年(1549)、尾張の織田家を攻める過程で吉良氏を降した今川義元は、義安を
          人質として駿府に送り、義昭に両吉良氏を統合させた。しかし、義昭は西条吉良氏の居城
          西尾城を義元に召し上げられ、東条城へ移ることになった。
           永禄三年(1560)に桶狭間の戦いで義元が戦死すると、松平元康(徳川家康)が岡崎城
          に復帰して自立を図った。元康は津平砦に松井忠次(松平康親)、糟塚砦に小笠原長茲、
          小牧砦に本多広孝を配して東条城包囲網を敷いた。同四年(1561)九月十三日、松平勢
          は東条城下の藤波畷に攻め寄せ、広孝が吉良家中随一の勇将富永忠元を討ち取った
          (藤波畷の戦い)。忠元の死により義昭は戦意を喪失し、ほどなく降伏して東条城を明け
          渡した。
           永禄六年(1563)に三河一向一揆が勃発すると、義昭も家康に反旗を翻した。翌七年
          (1564)に一揆は鎮圧され、その後もしばらく義昭は抵抗したとされるが、やはり同年中に
          降伏した。まもなく義昭は三河を追放ないし出奔し、東条城には青野松平家忠(義春の孫)
          が入れられた。義春の系統が東条松平家と呼ばれるのは、実際にはこれ以降と考えられ
          ている。ちなみに、東条松平家忠は『家忠日記』で知られる深溝松平家忠とは同名の別人
          だが義兄弟にあたる(深溝松平家忠の妹が東条松平家忠の妻)。
           天正九年(1581)に家忠が嗣子なく没すると、家康四男の忠吉がその跡を継いだ。忠吉
          は翌十年(1582)に駿河国三枚橋城主となったが、実際には前出で東条松平家臣の松井
          忠次が赴任したとされる。そのため、東条城の廃城時期については諸説あり定かでない。
          最も早い説で、現地説明板より忠次が牧野城(諏訪原城)の守将の1人となった天正三年
          (1575)、遅くとも家康が関東へ移封となった同十八年(1590)の15年間のこととみられる。


       <手記>
           東条城は矢崎川と炭焼川に挟まれた緩やかな独立丘を利用していますが、丘全体では
          なくその南東隅の一端に築かれています。丘の中心部との間は峠道となっていて、当時
          の大手かは分かりませんが、この峠道の県道沿いに登城路があります。
           主城部は上下2段の本丸に、八幡社境内となっている二の丸、さらにその下に三の丸が
          あります。主郭の北側にはもう1段矩形の広い区画がありますが、曲輪なのか後世の耕地
          なのかは判別が困難です。二の丸と三の丸の間から腰曲輪の脇を下りる別の道があり、
          こちらが大手だった可能性も考えられます。
           東条城といえば本丸に戦国時代らしい城門と櫓が再現されていることで知られていまし
          たが、私が訪れたとき、倒壊の危険ありとのことで撤去工事が行われていました。ちょうど
          その最終日で片付け作業か何かをなさっていた工事の方に、ダメ元で「本丸入れません
          か」と伺ったところ、「いいですよ、気をつけてくださいね」と通していただきました。
           建物が撤去されたばかりの生々しい虎口を抜けると、本丸はかなり広い空間です。面積
          や比高を考えると、吉良氏は本丸に居館を設けて居住していたのではないかと感じられ
          ました。その一隅に、連歌師宗長が滞在したときの歌碑が建てられていて、そこには「海」
          が読み込まれています。このことからも、本丸に居館があり、そこから海が見えたという
          見解は補強されるように思われます。すなわち、東条城は本質的に館城であり、構造上
          の工夫もさほど見られないことから、後の東条松平家に至るまでさほど実戦を意識しては
          造られていないように見受けられます。
           さて、東条吉良氏については東条松平家との関係が論点の1つとなっています。当時の
          吉良氏の勢力や家格を考えると、わざわざ松平家の分家から養子を迎える必然性はない
          だろうと推察されます。他方で、松平一族に足利一門の通字である「義」を諱に用いて
          いる人物は、義春のほかにいません。青野松平家が吉良荘内に所領を得ていた形跡も
          みられるということから、まったくの無関係とも言えないと思われます。たとえば、より青野
          に近い荒川氏など吉良氏の庶流の名跡を継いで、松平氏が両吉良氏の勢力圏に食い
          込もうと画策したとする推察は、充分に成り立つでしょう。

           
 櫓門の撤去された本丸虎口。
櫓門が撤去された直後の跡。 
 物見櫓跡。
本丸のようす。 
 本丸北東隅の櫓台。
本丸南東辺の虎口跡。 
 二の丸の八幡社。
二の丸の土塁(奥の茂み)。 
 本丸虎口から三の丸を見下ろす。
三の丸の縁。土塁跡か。 
 三の丸下の帯曲輪。
帯曲輪サイドの横矢状の張り出し土塁。 
 張り出し土塁の上。
本丸北1段下の矩形区画。曲輪跡か。 


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